福音を宣べ伝えずにはいられない

「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」(コリント人への第一の手紙‬ ‭9‬:‭16‬)

パウロは福音を宣べ伝えずにはいられないと言った。パウロは福音を宣べ伝えることは自分にゆだねられた「務め」であり、報酬の有無に関しては「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないこと」(コリント人への第一の手紙‬ ‭9‬:‭17‬-‭18‬)と述べている。つまり福音を宣べ伝えること、伝道は「仕事」ではなく、使命を頂いた者にとっては、そうせざるを得ないものなのである。

パウロは、福音のためにどんな事でもすると言った。福音を宣べ伝えて、なんとか幾人かでも救いたいと考えていたからである。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭9‬:‭19‬-‭23‬)

福音を宣べ伝えることを自分の使命と考えるなら、私たちは何でもやる覚悟を持てる。

時が良くても悪くても、報酬を得られても得られなくても、福音はすべての人々に宣べ伝えるものである。

愛する天のお父様、イエスキリストの救いは信じる者すべてに与えられます。これぞ福音であり、私たちは宣べ伝えるように召されています。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。