悲しみの淵にて

「王は顔をおおった。そして王は大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。」‭‭(サムエル記下‬ ‭19‬:‭4‬‬)

アブサロムは言わば、とんでもない息子で、父ダビデの命を狙い、追いかけ回していた男である。ダビデにとっては最大の悩みの種であった。しかし、いざアブサロムが死ぬとダビデは、大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。息子のことを愛おしく思ったのか。

時にダビデと一緒にアブサロムから逃げ回っていたヨアブは家にはいり、王のもとにきて言った、「あなたは、きょう、あなたの命と、あなたのむすこ娘たちの命、およびあなたの妻たちの命と、めかけたちの命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。 それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。 今立って出て行って、しもべたちにねんごろに語ってください。わたしは主をさして誓います。もしあなたが出られないならば、今夜あなたと共にとどまる者はひとりもないでしょう。これはあなたが若い時から今までにこうむられたすべての災よりも、あなたにとって悪いでしょう」。 

そこで王は立って門のうちの座についた。人々はすべての民に、「見よ、王は門に座している」と告げたので、民はみな王の前にきた。さてイスラエルはおのおのその天幕に逃げ帰った。」‭‭(サムエル記下‬ ‭19‬:5‬-‭8‬)このことで、ヨアブは論功行賞を手にした。

たとえ自分の命を狙う敵であっても、我が子となれば情を抱き、喪失を心底悲しむのは理解できることである。

しかしたとえ子息だとわかっていながらも自分の主人と自分の命を狙う敵対者の死を嘆き悲しみ、自分たちの安全や安堵感に意を向けないダビデに対して苛立ちを感じるヨアブの気持ちもわからないではない。

実はアブサロムの命を取ったのはヨアブであった。「まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通し」(18:14)たのである。晩年ダビデの信頼を損ねたヨアブはダビデの命令によって命を取られる。

人の命が奪われることが平然と起き、聖書は決して美しい話ばかりを並べ立てることはない。むしろ人間の罪深さを描いている。

罪のゆえの悲しみ、単純に愛する者を喪失した時のかなしみは人知れず大きい。そんな時悲しむ者に対して非情にも論功行賞を求めるような者になりたくない。

愛する天のお父様、あなたは悲しむ者と共に悲しまれるお方です。あなたに信頼します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。