福音のために

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(‭‭マルコによる福音書‬ ‭8‬:‭34‬-‭35)

福音のために命を文字通り捨てた人々は大勢いる。いわゆる殉教である。彼らは命が救われることを信じ、また喜んで命を失っていった。

もし何も得られないのだとしたら命を捨てることは虚しく、またそれを教えたり強要することは大罪となろう。しかし、救いを得られるとしたら、イエスのために命を捨てることに大きな意味がある。

イエスは自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスに従うように言われた。私たちは自分の夢のためではなく、主の夢のために生き、自分の方法ではなく、主の方法によって歩む。自分自身の声に従うのではなく、主の声に聞き従うように言われた。

私たちは他人の十字架やキリストの十字架を負うことはできないが、自分自身の十字架を負うことはできる。当然自分自身の十字架でさえ負うなどしんどいと思う。しかし自分自身の十字架は負うことができる十字架だ。自分の欲に対して死に、神の御心を求め続けて、信頼して歩むことだ。

このこともイエスキリストを信頼して歩みたい。

愛する天のお父様、あなたを信頼し、あなたと共に歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。