誓いの言葉

「モーセはイスラエルの諸部族のかしらたちに告げた。「これは主が命じられたことである。男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(民数記 30:1,2)

誓いは必ず実行するという私たちの決意表明。だから自分の言葉を破らないという決死の覚悟が伴う。

イスラエルの民の中で、男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならないように主は命じられた。女の場合は父親と夫が、反対することで無効にできたが、それは夫や父親が責任を負うことを意味している。また寡婦の場合は当人が主の前に誓願を立てたのは、イスラエル社会が家族単位で物事を決めてゆくことを表しているからだろう。

さて誓願についてイエスはこのように言われた。「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」

主イエスによると、誓願について最も大切な教えはこうである。「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイの福音書 5:33-37)

出来る出来ないを濁したり、やるならないを濁して誓わないのも私たちの常套手段だと思うが、神の前に誓って歩む時、そこには責任感とアカウンタビリティが生まれ、あやふやではなく、明確な歩みをする助けとなる。

私も結婚した時に主の前と参列者たちの前で妻を愛すると誓った。確かに当時は愛の意味について今ほど理解していたわけではないが、この誓いがあったからこそ、より深く愛とその重要性を知ることができた。

自分の身の丈を知り、格好つけるのではなく、神と人との前に、正直に生きる者でありたい。そしてここぞという時には神に決意を表し、聖霊の助けを得て歩んでいきたい。

愛する天のお父様、あなたの約束を感謝します。あなたを愛し、また妻を愛すると誓ったように、愛についてさらに教えてください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。