神様の声とサタンの声

聖句:

“それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。

自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」”

マルコの福音書 8章31~38節

観察:

            イエスさまは、これから多くの苦しみを受けるであろうと弟子たちに教え始めます。長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと。イエスさまは、多くの苦しみを受けることも含め、神様のご自分に対するご計画を知っていました。 そのことを率直に弟子たちに伝えています。それを聞いたペテロは、イエスさまをわきにお連れして、いさめ始めます。 

            誰もが、多くの苦しみを受けることがあらかじめ含められた計画をすき好んで受け入れたりはしません。私たち誰もが苦しみのない、または、あったとしても最小限の苦しみしかない計画を望むはずです。イエスさまは神様の計画の中には困難が含められていることをご存知でした。 神様の計画の敵は、サタンの神様への対抗策と人間の思いです。 この二つのサタンの神様への対抗策は、多くの人が自分の人生や計画において神様が関心を寄せていることを追い求めることを止めさせてしまいます。 また、人が自分の人生について神様が関心を寄せていることや計画を求めるときには、必ずサタンが私たちに話しかけてきます。 ですから、多くの場合、私たちは神様の声や神様が関心をもっている事よりも、人間の思いやサタンの声を聞いてしまうのです。 私たちが注意しなければならないのは、神様の声だけではありません。 あなたの問題や苦しみは、決して神様が関心をもっていない、または、神様の計画には含まれないのだとあなたのことを説得しようとするあなた自身の声やサタンの声に注意してください。

           .  イエスさまはペテロの背後にいる霊をちゃんと知っておられました。サタンはペテロを使って、イエスが与えるために来られた救いの計画を阻止しようとするのです。ペテロがイエスさまに向かってなんと言ったのかは定かではありませんが、マルコは、ペテロがイエスさまをいさめたと記しています。これはペテロが語っている言葉ではなく、彼の後ろにいるサタンがペテロに言わせていることをイエスさまがご存知だったのは明白です。 人間が関心を持つその思いは、表に出てきますが、それについてその背後に何があるのかを明らかにする必要があります。

ペテロは、「なぜあなたが苦しみを伴い、殺されなければならないというような言葉を口にするんでしょうか」とイエスさまに言っていたのかもしれません。 誰が死んでいくような人について行きたいと思うでしょうか。 誰が苦しみを受けるメシアについて行きたいと思うでしょう。 なぜ、苦しみを経験する必要があるのでしょう。 素晴らしい力ある人についていっていながら、その後、その人が殺されるなんて、ありえません。ペテロがどのような言い方で、人が思うようなことを言ったかは分かりませんが 、ペテロへのイエスさまの答えが私にある思いを与えてくれています。

イエスさまはペテロにこう答えています。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 ペテロはイエスさまにこう叱られてしまいました。そして、イエスさまは、「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 」と教えています。 イエスさまの弟子であるならば、神様の思いや関心を寄せていること、そして神様の計画に敵対する人の思いを捨てなければなりません。

もし私が、自分に苦しみや不安をもたらすものから自分を救うことだけを考えているなら、正直に言って、イエスさまの弟子であるとは言えません。 私は、神様が関心をもっていることではなく、全世界の人間が関心を持つことだけを得ようとするだけであれば、本当にイエスさまの弟子とはなれません。 イエスさまの苦しみとイエスさまが主張を恥じるなら、私はイエスさまの本当の弟子にはなれません。 

神様が私の人生で成し遂げたいことに参画するために、苦しみなしに神様が計画を与えてくださることはありえないということに、今日、私は気づきました。 イエスさまは苦しみから従順を学ばれました。 自分の人間的な関心と神様の関心との間で選択を迫られて苦しむことを学ぶ以外に、従順へのテストが本当に見られる所はないのです。 十字架の道は、イエスさまがペテロとイエスさまに従うすべての人に知ってほしい生き方のリトマステストです。

適用:

            私は本当に、苦しみからくるチャレンジとそれに対するさまざまな思いについて、人間的な懸念でいっぱいです。私は苦難を受けることを学ぶ必要があります。 今日、私は、私の人生における神様の関心と計画の中で、苦しみの時があることを受け入れることなしに、イエスさまに従うことはできないことを思い起こされました。 私は神様の関心事を受け入れ、神様が私の人生のために計画されたすべてのことに従順に歩んでいきたいと思っています。 私の人生が神様のものであり、神様に喜ばれるものでありますように。 

祈り:

                        イエスさま、私は今日、私の考え方について、チャレンジされ、正されました。 私の人生を導くのが、あなたの関心事ではなく、人間の関心事であることの危険性を指摘していただき、感謝します。あなたが私の人生になさるすべてのことにおいて、あなたの御心と目的を見分けることができるように祈ります。 人間の理性やサタンから聞こえてくる声よりも、あなたの声を聞くことができるように助けてください。 アーメン!