赦してやりなさい

「イエスは弟子たちに言われた、「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。」(‭‭ルカによる福音書‬ ‭17‬:‭1‬-‭4‬)

私たちではなく、誰が別の人が私たちに罪を犯し、私たちのもとに「悔い改めます」と言って帰ってきたら、赦しやりなさいと主イエスは言われた。

私たちとしては、おそらく「そんなの嫌だ。絶対赦さない」「弁償しろ」「刑務所に行け」あるいは「生きていて欲しくない」と思うであろう。

確かに、犯罪や道徳的罪は「わざわい」である。被害者の立場から見れば苦痛を強いられたのだから加害者を簡単に赦すわけにはいかない、という心境だろう。

主イエスはこのように言われた。「これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。 」小さい者とは子どもに限らず、小さくさせられた被害者という立場も表しているのかもしれない。

だから加害者に対しては、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい」とあるように、害を与えたことについて考えたり、反省してもらうことは重要なことだ。

そしてその先が大切である。加害者が「悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」ということだ。悔い改めるとは心を入れ替えること。単なる口先の謝罪でもない。心底自分の犯した過ちを悔い、さらに変わりたいと決意しているのなら、赦してやるということだ。

そして、さらに「もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」ということだ。

1日に7回も私たちのところに来て謝罪したら、私たちは呆れるだろう。しかし、私たち側にとっては、何度でも赦すことが大切なのである。

誰のために、何のために、被害者である私たちは加害者を赦すのか?それは、私たち自身のためである。私たちが受けたダメージをそのままにしないせず、直ぐ癒され、なるべく早く立ち直るために最善かつ最善の方法が「赦し」だ。言うのは簡単でやるのは難しい。

他人を赦す上で私たちを強く後押ししてくれるのは、私たち自身が自分たちの罪をすべて主に赦していただいているということだ。自分自の罪深さを噛み締めれば噛み締めるほど、自分自身も赦されていることを強く自覚し、加害者を赦すということに至るのだろう。

愛する天のお父様、私はあなたに背き、悪き考えや行いをたくさん行ってきました。しかしあなたは御子イエスの十字架の贖いにより、私たちの罪をすべて赦してくださり、ありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。