後の者は先に、先の者は後に
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」(マタイによる福音書 20:16)
ぶどう園の労働者たちに約束された賃金が労働者によって違うことで主人に不服を申し立てたのだが、主人は、
「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当り前ではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」(20:13-15)と答えた。
賃金の額は主人が決めるもので、給与額や条件は主人次第である。しかしもし私たちが周囲の人々と比較するなら、優越感もしくは劣等感を感じるであろう。雇用主との間に交わされた合意そして契約があるなら、何の問題もないはずである。
さて主が言われた後の者は先になり、先の者は後になるとは、どんな意味か?
一つには、先の者が後の者と比べて必ずしもより良いわけではない、ということがある。残り物や余り物は魅力の欠けたモノと見られがちかもしれないが、神の価値と人間の価値が違うことは明らかで、私たちは神の備えに対して人間的価値観を持ち込むと失敗しかねないし、惨めな思いになるだけだ。
この話の中に出てくる朝から働いていた者たちは1デナリの約束で働いて何も問題はないはずだが、夕方から働いた者たちが、同じ賃金を支払われたことに不満を感じた。
私も若い時に救われ、永遠のいのちというお金には代えられない高価なギフトを頂いた。私の祖父は病院で亡くなる数日前に救いを受け入れた。私も祖父も同じキリストの救いを受け入れたのだが、私は祖父と自分を比べることもなく、また何の不満も感じない。むしろ長年神と共に歩むことができて感謝している。
先の者であれ、後の者であれ、主に感謝して歩むのはいかがか。
愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。後になろうとも、あなたから与えられた課題に全身全霊で取り組むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。