キリストは死んでどうなった?
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」(コリント人への第一の手紙 15:3-5, 8)
キリストは死んだ。ただ死んだのではない。キリストは死んで、葬られ、よみがえったのである。そしてキリストはケパに現れ、十二人に現れ、パウロに現れ、五百人以上の人たちに現れたのである。
キリストの復活の証人が500人以上いるのだから、この事実を証明するには十分過ぎる人数である。本来は証人は最低1人、2〜3人いれば十分だからである。
多くの場合、私たちは自分の常識という色眼鏡で物事を見る。キリストが存在したことは人々は認め、キリストが死んだことに異論を述べる人もいない。しかし復活ということになると500人以上の証人がいるのにも関わらず、多くの人は復活を認めようとも信じようともしない。
私たちは科学的な根拠を求めるが、実際科学的な根拠よりも既得権益が優先され、絶対的ではない科学的知見をなぜか絶対視する。不思議なことに神の超自然的な働きを非科学的な理由で退ける。最終的には自分の中で「信じる」かどうかであり、信じる者は救われると聖書が記すのを信じるかどうかである。
キリストが死んだのは、人に妬まれたからだということは認めるが、私たちの罪のために死んでくださったというように受け入れることはできるだろうか?
私たちの罪のために死に、私たちのいのちのために復活してくださった。私たちを愛しておられるからこそ行動に移して愛を表してくださった。この言葉を信じ、受け入れた者が救われる。
愛する天のお父様、あなたの言葉を信じる者としてください。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。