あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められた

聖句:

“そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。

それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。”

コリント人への手紙 第一 6章7~11節

観察:

            パウロは、クリスチャンの人生を、過去の人生と新しい人生とを比較してその二つを対比させています。パウロは、クリスチャンの過去の神様を知らなかった時の生活様式がどのようなものであったかをリストにしています。すべての人がそうではありませんが、パウロは、何人かは私たちがもはや関わりを持つことをやめた生活様式に、受動的でも積極的にでも関与していると言っています。パウロは、このようなクリスチャンたちが互いに訴えを起こす有り様について言及しています。 これらの信者たちは、ダブルスタンダードの生活に陥っていたのです。 

彼らは互いに騙し合っていました。 彼らは、神様にならった生活と矛盾するような生活を送っていました。 パウロは、リストアップをしたような生活様式に関わっている者はすべて、神の国を受け継ぐことはないと力説します。 パウロは、すべての人を非難しているのではありません。しかし、神の真理を知りながら、自分の好き勝手な生き方を選んでいる信徒を非難していたのです。

            パウロは、「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、今やそうではありません。」と言いました。 パウロは、あなたがたはもはやそうではないと言っているのです。そして、パウロは、人の人生を変えたイエスさまの福音の力という希望について言及しているところが私のお気に入りの箇所です。 パウロはコリントの信徒たちに、「あなたはもはやそのようではない。」と励ましています。 イエスさまを知る前はそうだったかもしれないが、今、彼らはもうそのような存在ではないと。

            彼らは

§  洗われ、

§  聖なる者とされ、

§  義と認められたのです

それは、主イエス・キリストの名において、また私たちの神の御霊によりました。 これは、信じる私にとって、とても大切な福音のメッセージです。 私はどうしたら、もはや自分の人生を行きたいように行くるべきではないと知ることができるのでしょうか。 それは、キリストがすでに私のためにしてくださったことを理解することによってです。 私はキリストの血によって洗われ、過去の人生のすべての罪が赦されました。 私はイエスさまの血によって義と認められたのです。 このことは、すべてのクリスチャンにとって知らなければならない、非常に重要なポイントです。 

イエスさまにある新しい人生を歩むにためには、聖化されることが不可欠です。 パウロがリストアップしたものとは正反対の人生を歩むかどうかは、私の選択です。 それは、神様にふさわしい人生の全き力の中で歩むことを妨げる罪から離れて歩むことです。 私はかつて、パウロが「神の国を受け継ぐことはない」と言った人生に何の疑いもなくどっぷり浸かっていました。 しかし、私は神様によって洗われ、聖別され、義とされる、神様が望む人生に従うことの選択を個人的にしたのです。 洗われ、聖別され、義とされたことは、すべて神様の行為です。 私のライフスタイルは、すべて私が自分の人生をどうしたいかという選択の結果です。 私たちは皆、ここで、神様が望まれる生き方を選ぶか、自分の好きなように生きる生き方を選ぶかを選択しているのです。

この神様のみ国と罪の国とは互いに相容れません。 性的に不品行な生活、同性愛、強欲、泥棒、酩酊、誹謗中傷をする者、人を騙すことを愛する者は、神様が望まれるような影響を人々に与えていくことに反しています。 パウロによれば、これらの人々は神の国に関するものを何一つ望んでいないことになります。 これは彼らが選択したことです。 しかし、信者の中には、そのような生活をしていた人もいるのですから、信者がすべき選択ではありません。ですから、神様が望まれるような生き方をするために示されたものを受け入れるのか、それとも自分個人の生き方として自分勝手に好き放題な生き方を追い求める生き方を受け入れるかどうかは、その人の選択です。 パウロは、神の国を受け継ぐ人生と受け継ぐことがない人生を比べています。 それについて議論し、反対することもできますが、結局は自分の選択になるのです。 二つの人生は対照的で、一方はみ国にふさわしく、もう一方はそうではありません。 あなたと私は、イエスさまと神の霊によって洗われ、聖別され、義と認められたのです。  

適用:

            私は謙遜に歩み、神の国を受け継ぐための神様が定めた条件を受け入れることを選びます。 イエスさまと私の中の神様の御霊によって、私が洗われ、聖別され、義と認められたことを感謝します。 私は、神様がみ国を受け継ぐ者のために選んでくださった者にふさわしい人生を、これからも生きていきます。 

祈り:

            イエスさま、あなたが私に与えてくださった命に感謝します。 十字架のみ業によって、私を洗い、聖別し、義としてくださっていることに感謝します。 人生の選択の大切さを思い出させてくださりありがとうございます。 自分が正しいと思う生き方を選ばず、あなたを恐れ、あなたのみ言葉に従うことができるよう私を教えてください。 聖く、あなたに受け入れられる人生を歩むことができるよう、私を教えてください。