福音は自分の力ではなく神の力による

「いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」(コリント人への第一の手紙‬ ‭1‬:‭17)

パウロは自分が遣わされたのは、福音を宣べ伝えるためだと言った。福音とは良い知らせである。何が良い知らせかというと、主イエスキリストを神の御子であり、救い主であると信じて心に受け入れる者は誰でも救われるのである。

福音を宣べ伝える対象は、クリスチャンではない人たちとクリスチャンである。前者は伝道の働きであり、後者はバプテスマを授け、牧会の働きである。

パウロは牧会者というよりも伝道者もしくは宣教師とし

ての働きに重点をおいたが、牧会も伝道も宣教もお互いに切り離すことはできない働きでもある。

パウロが福音を宣べ伝えた時、知恵の言葉を用いなかった。もしかしたら雄弁でも流暢でもないため、口頭で福音を伝えることに限界を感じていたのかもしれない。話は、わかりやすく、面白く、魅力的なもののほうが良いに決まっている。しかし福音は私たちの能力や努力では勝ち得ず、主の力、主の主権によって、聞く人の人生を変える力を持つ。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(‭1‬:‭18)

私が福音を宣べ伝える時、主に祈り、主の力があらわれるように祈ってから宣べ伝えたい。

愛する天のお父様、あなたの救いの扉は全ての人に開かれています。あなたは御子イエスを信じて心に受け入れる人を救ってくださいます。これは私たちにとって永遠の決断です。あなたの知恵と力によって人々は救われますから、福音を宣べ伝え続けることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。