すでにかなえられたと信じて祈る
「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」(マルコによる福音書 11:24-25)
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じる」とは素晴らしい祈りである。私たちは信じるだけで良いのだから。また、神は私たちに神を信じることを願っておられる。私たちが神を信じる時に、神は私たちに私たちの祈り求めることをかなえてくださる。
では、祈り求めるとは、どういうことか?私たちはどれくらいの期間、どれくらいの熱量を持って祈るのか?長ければ長いほど、手に入れやすくなるのか?熱ければ熱いほど神は私たちに目を向けてくださるのか?純粋であればあるほど良いのか?
私たちが祈り求める時、思い通りにならないことはあるのか?すでにかなえられたと信じて祈るなら、私たちの願い通りになるという約束は、私たちに神に委ねることの大切さを教えているのだろう。祈りは結果ではなく、信仰であり、祈りによって私たちの心が、どのくらい変えられるのか、という点も大切なのであろう。
私たちが立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやることについては、どうだろうか?
立っているのは私たちの積極的な姿勢を表している。神を信じて祈るとき、すでにかなえられたと信じて祈る中で、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやることが思い出される。
私たちの祈りが叶えられる約束をいただいたのなら、私たちは何故人を赦さないのか?自分自身の罪だけが赦された訳ではなく、すべての人の罪が赦された。私たちを罪赦された者として、恨みを持つ人を赦したい。
愛する天の父よ、御子イエスを信じることで、私たちのあやまちを赦してくださりありがとうございます。あなたは私たちの祈りに耳を傾けてくださいます。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
