信仰によって聖霊が与えられる

「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。」(‭‭ガラテヤ人への手紙‬ ‭3‬:‭6‬-‭7‬, ‭14‬)

聖霊が与えられたのは、モーセの律法、つまり戒律を一生懸命守ったからではない。聖霊が与えられたのは、信仰によったとパウロは記している。聖霊が与えられることは、クリスチャンにとって最も素晴らしい神からの贈り物である。

聖霊は私たちが神を信じた時に与えられる。救いが与えられ、さらにこの地上で歩む上で必要な知恵や知識、信仰や奉仕、その他諸々のものは聖霊が与えてくださる。聖霊が与えられるならば、本来神が定められた善悪の分別ができ、行動も変えられ、さらには知恵深い生き方ができるようになってゆく。

だから律法は養育係であって、本当に必要なものは律法遵守ではなく、聖霊によって歩むことである。

聖霊を頂いた私たちが気をつけなくてはならないことは、律法を重視するあまり、他人に押し付けてたり、律法からはみ出た人をさばいてしまうことがある。そういう本人も含め、誰一人して守ることができないのに。何よりも律法の精神や、その本質をわかっていないため、行動では姦淫を犯さなくても、心で姦淫を犯したり、口先で親切にしていても、心の中で他人を裁き、憎み、恨む状態になってしまったりする。

神を信じるということは、罪深い私たちの罪が赦され、神の憐れみと恵みの中で、聖霊の力と助けによって歩むことである。だから他人を裁くような律法主義とはほど遠いものである。

「アブラハムの子である」とは神の祝福を頂いた者であり、それは決して血のつながりを指すのではなく、信仰によって神を信頼する人すべてを指す。だからユダヤ人も異邦人も関係ない。もし私たちが主イエス・キリストを信じたのなら、私たちは「アブラハムの子」である。そして聖霊を頂いて歩むことができる。

愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。私たちは信仰によって、あなたと共に歩むものとなりました。今日もあなたを信頼します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。