悪い道を離れる
「ユダの王ヨシヤの子エホヤキムが世を治めた初めのころ、主からこの言葉があった、 「主はこう仰せられる、主の宮の庭に立ち、わたしがあなたに命じて言わせるすべての言葉を、主の宮で礼拝するために来ているユダの町々の人々に告げなさい。ひと言をも言い残しておいてはならない。 彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れない。そのとき、わたしは彼らの行いの悪いために、災を彼らに下そうとしたのを思いなおす。 あなたは彼らに言いなさい、『主はこう仰せられる、もしあなたがたがわたしに聞き従わず、わたしがあなたがたの前に定めおいた律法を行わず、 わたしがあなたがたに、しきりにつかわすわたしのしもべである預言者の言葉に聞き従わないならば、(あなたがたは聞き従わなかったが、) わたしはこの宮をシロのようにし、またこの町を地の万国にのろわれるものとする』」。」(エレミヤ書 26:1-6)
イスラエルの民は悪の道を歩んでいた。主なる神を礼拝し、主なる神に従うのではなく、偶像礼拝の道を歩んでいた。
しかしユダの町々の人々は、主の宮で礼拝するために来ていた。そこで主はエレミヤに彼らに預言するように命じられた。エレミヤに求められたのは、主の言葉を部分的に伝えるのではなく、一言も言い残さず伝えることだった。
エレミヤが預言したのは、彼らが聞いて、おのおのその悪い道を離れることがあるかも知れなかったからである。もし彼らが聞いて各々その悪の道を離れるなら、そのとき主は彼らの行いの悪いために災を彼らに下そうとしたのを思い直すと言われた。主は悪事を働いた人々に罰として災いを下すことを目的としているのではなく、悪の道を離れることを願っておられる。人々が悪の道を離れることで、災を下すことを思いなおすと言われた。
私たちが悪の道を歩むのは、私たちにとってよくないことだ。そんなことは皆、頭ではわかっている。しかし私たちは周りの目を気にして同調したり、何かしらの理由で悪事に手を染める。悪が良くないことであることをはっきり示してくれる手段が私たちの礼拝である。教会や礼拝堂にいかなければ礼拝できないわけではない。自分の部屋や職場や教室などにいて神の言葉を読み、賛美し、祈る中で神を礼拝する時に、神は私たちの内にある悪事を示してくださり、私たちに悪事を離れるように促してくださる。
形ばかりの礼拝で悪事を行うのなら、シロの礼拝堂のように滅びを招くだろう。しかし私たちはおのおの悪を離れて、神が命じられた良いことを行うものとなりたい。
愛する天のお父様、あなたの言葉を素直に受け入れる者としてください。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
