配慮ある宣教

「ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」(使徒の働き 15:19-21)

福音が伝えられていく中で、ユダヤ人と異邦人の文化や考え方の違いについて配慮することが大切だ。

ここで取り上げられた、4つの避けるべきことは、どれも旧約の儀式律法に関することで、救われるために異邦人を捨てユダヤ人となることで救われるのではなく、異邦人のまま、ただイエス・キリストを信じるだけで救われると強調した。ユダヤ人になるための律法として割礼があったが、その要求を異邦人につきつけて、彼らを悩ますのは神の意図としたことではないと伝えた。

「昔から、町こどにモーセの律法を宣べ伝える者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれている」(21節)とあるが、異邦人クリスチャンの周囲には、安息日ごとにユダヤ諸会堂で律法の朗読を聞いているユダヤ教の人たちがいて、彼らのつまずきにならない配慮として4つのことが取り上げられた。

この四つの事柄は特に目立つ規定だけで、救われるためにこのような律法を守らなければならないわけではなかった。私たちが救われるためには、ただイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるだけで良い。律法を守ることは救いに関係はないが、世間の人々のつまづきになるか否かという点から考えると、この四つの項目は心して避けるべきものだった。

パウロは1コリント9:19-22で次のように言っている。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」

パウロ自身は偶像に備えた肉を食べても、別に問題はないという見解を持っていたが、悪霊につかれてしまうのではないだろうかと心配する人たちにつまずきを与えないために、あえて食べないことにした。パウロの言動の基準はいつも、福音のために生きるということだった。何とかして、幾人かでも救われてほしいという願いがあったからだ。

かつて日本にスイスから、エミール・ブルンナーという、とても有名な一人の神学者がやって来ました。彼は日本の大学や神学校で教えるために約2ヶ月間日本に滞在したのだが、実は彼は大変な愛煙家、いつも口にパイプをくわえていた。ところが彼が日本にいた二ヶ月間、彼は一本のたばこも吸わなかった。その理由を尋ねると、彼は「私は日本に来る前に、日本のクリスチャンたちの多くは、禁酒、禁煙をモットーにしていると聞いた。それがスタンダードな日本の教会の考えだと。だから、私がたばこを吸うとによってつまずく人がいるかもしれない。もちろん、いないかもしれない。でもいるかもしれない。もし一人でもそういう人がいる可能性があればと考えたので、私は日本にいる間は一本のたばこも吸わないことに決めた。」ブルンナーは福音のために我慢し、弱い人のためには弱い人のようになったという。

自分の要望などあるかもしれないが、それ以上に他人に配慮出来ることは素晴らしい。

愛する天のお父様、あなたの福音のために、自分の価値を押し付けることなく、他人に配慮して歩むことが出来ますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。