神との共同作業
「ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。」(使徒行伝 12:12)
ヘロデ王はペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであった。 教会では、ペテロのために熱心な祈が神にささげられた。
ヘロデが彼を引き出そうとしていたその夜、二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて眠っていたペテロに突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。
そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。 御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、 ペテロはついて出て行き、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いた。
その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ。」(使徒行伝 12:4-11)
ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行くと、その家には大ぜいの人が集まって祈っていたという。
この聖書箇所は教会の祈りの大きさを伝えている。教会とは建物ではなく、人々である。人々が神に熱心に祈るとき、神は働かれ、不思議なことをされる。ペテロはバプテスマのヨハネのように牢獄で命を落とす可能性もあったが、神はペテロを牢獄から不思議な形で脱出させられた。
神は私たちの祈りに依存して偉大な働きをされる方ではなく、ご自身が望めば、どのようなことも成し遂げられる。しかし神は私たちの祈りや信仰を通して働きたいと願っておられる。主は私たちに共同作業を願っておられるのである。ならば、私たちは神の働きの同労者として、祈りを熱心に捧げていきたい。
祈りは私たちの義務ではない。神の働きを進める責任であり、また喜びでもある。
愛する天のお父様、あなたは私たちの祈りを通して働いてくださるお方です。私たちが祈り、私たちが謙ることもあなたが喜ばれることです。あなたの働きの同労者として関わらせてください。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。