イエスについてゆく
「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(マルコによる福音書 8:34-35)
私たちがイエスについていくために大切なことがある。それは自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従うことである。
自分を捨てるとはどういうことか?言語であるギリシャ語では「拒否する」「断る」「所有を放棄する」などの意味がある。自分自身の計画ややることリスト、こだわり、あらゆる自分自身を中心とする考え方や行動を一旦お預けにすることということか。
自分の十字架を負うとは、どういうことか?イエスが身代わりとなって十字架にかかってくださったので、私たちは十字架を負う必要はないが、その重要性を考えると、その意義に相応しい生き方について考えさせられる。自分の罪を赦され、あがなわれた者、また神の所有とされたことの意義を考え、自分の人生を神のために生きるということではないか。
主に従うとは、どういうことか?イエスの命じられたことを守り行い、イエスの歩まれた道を歩むことではないか。
イエスについていくとは、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うことは自分自身のやり方を手放し、神に信頼することを意味する。自分自身のやり方を捨てることは楽ではないだろうが、私たちを創造し、私たちを治めておられる主の方法に従うほうが遥かに良い結果とならないだろうか?
主を信じて一歩ずつ歩みたい。
愛する天のお父様、あなたを信頼します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。