愛という素晴らしい賜物

聖句:”愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、真理を喜びます。 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。” コリント人への手紙 第一 13章4~8節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:
            愛は決して絶えることはないという力強い宣言です。しかし、これは多くの人が知っている愛とは異なります。パウロが述べたこの種の愛は、他人に対する感情的な愛以上のものです。コリント人へのこの手紙の中で、パウロはあらゆる賜物に勝る愛の重要性について述べています。 彼はこれを最も優れた賜物と呼んでいます。 私たちの霊的な賜物は、すべてこの愛をベースに使われていなければなりません。パウロは、愛は何よりも優れており、決して絶えないと強調しています。              コリントの信者たちは、信仰、希望、愛よりも預言と異言を過度に強調していたのかもしれません。この問題は現在でも存在します。多くの人が、信仰、希望、愛よりも異言や預言を過度に強調しています。パウロは、異言や預言は必要ないとは言っていません。私たちは異言と預言も大切にしなければなりませんが、それらには限界があります。パウロでさえここで、これらの霊的な賜物はいずれ消えてしまうと指摘しています。
            しかし、人が愛という言葉をよく理解しているため、他の信者y私の周りの人たちとの関係は、異言や預言よりもはるかに大きく優れたものの上、すなわひ愛の上に築かれていきます。それは私たち皆が言葉にだし、行動であらわさなければならない言語です。  信仰、希望、愛は誰もが必要とするコミュニケーションのツールです。そして、それらは、信者であるかどうかに関係なく、みんなが理解することができるものです。 
            愛は異言や預言のように、言葉だけでなく行動を通して表現されます。私が異言や預言を話しても誰も気にかけません。しかし、彼らには、私がどのように彼らをと向き合い、愛の言葉で彼らに話しかけているかどうか分かっています。 彼らは、私が寛容な人間なのか、親切な人間なのか、妬み深い人間なのか、自慢し、高慢な人間なのか、礼儀を知らない人間なのか、他人の名誉を傷つける人間なのか、自分のことしか考えない人間なのか、いつもすぐに怒りっぽい人間なのか、いつも間違いだらけの人間なのか、常に私の言動を見て私という人間がどういう人間なのか分かっています。
            人は異言や預言よりも愛という言語の方がより身近です。 したがって、パウロは、異言や預言を軽視することなく、人生を変える愛の力に注意を向けろということを言っています。最終的に残る三つの賜物は、信仰、希望、愛です。  誰もが異言を話す必要があるわけではなく、誰もが預言する必要があるわけではありませんが、人間には信仰、希望、愛が必要です。すべての賜物にはそれぞれの役割がありますが、信仰、希望、愛ほど、信者であるかどうかにかかわらず、人を神様に惹きつける力を持つ賜物はありません。このように、愛という言葉はその中でも最も優れており、常に人を変える強い力があります。
応用:            もっと私は頻繁に愛の言葉を話さなければなりません。私は時々、愛を適切に語れなていないことがあるのを知っています。愛は私が持つべき態度であり、人と一緒にいるときは常に身につけているべきものです。私は愛の言葉を語る方法について、パウロからこの励ましを聞く必要がありました。私はこれを家庭の中での私自身の関係の中で日々実践したいと思っています。  
祈り:            イエス様、私が毎日持つべき愛の力を思い出させてくれたことに感謝します。パウロが書いた愛の性質を備えた人となれるよう私を助けてください。私があなたを愛し、他の人を愛することができるよう、あなたの愛で私を満たしてください。日々、優しさ、忍耐、そして愛がもたらすあらゆる祝福で私を満たしてくださるように。あなたを中心とした愛の力を思い出させてくれ感謝します。アーメン!