イエス様を求めることに心を置く

聖句:”草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。” ルカの福音書 12章27~32節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


観察:イエス様は弟子たちに恐れから生じる様々なの問題について説明しました。彼らに危害を与えようとする人たちを恐れることはない。弟子たちは彼らを殺そうと企む人たちを怖がるべきではない。むしろ、人を地獄に突き落とすことのできる権威を持っている神様を恐れるようにと。この現代において、この言葉は極めて不快な、考えたくもない言葉です。
しかし、この言葉はイエス様に従おうとする人たちへの真剣なメッセージとして捉えることができます。私たちは、時に、神様を恐れずに人間を怖がっています。イエス様は、私たちの必要を全てご存じの神様を恐れなさいと教えてくれています。私がどんな人間なのかを忘れない神様を恐れろと。私の頭の髪の毛の本数をご存じなのですから、神様は私の人生に関する細かなところもよく知っておられるということです。人間ではなく、神様こそが私が恐れるべきお方なのです。
            また、イエス様は弟子たちにこう言われました。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」貪欲は一種類だけではありません。たくさんあります。金銭的な

貪欲、時間、才能や他にもたくさんあります。貪欲とはあらゆる形の欲望、例えば、何かを自分のものにしたいという欲望やそれへの渇望、衝動、などです。貪欲は、人生に意味を与えてくれている神様のことを考えることなく、自分が欲しいものを自分で手にいれ、やりたいことを自分でやり、自分の必要は自分で備えられると、自分の力に頼るように仕向けます。貪欲さや生活のためにものを掴みに行こうとする行動の根本原因は、人生に欠けていることへの心配から来ているという気づきです。  
            イエス様は弟子たちに恐れや心配事への対応策を授けています。そして、私の恐れに対する答えもくださっています。·      草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。言い換えれば、誰も世話をしていないのに自然に育つ自然界の植物を見ることが必要だということ。その美しさのために、草花はあくせく働くことはありません。それぞれがフィットする環境で育っていっています。神様は草花が神様の恵のもとで育つようにとデザインされたのです。 ·       神様が私の面倒を見てくれることができる方であると信じる

信仰を持たなければなりません。私は、イエス様が私の身の回りのことをケアしてくれることができるということを信じる必要があります。ですから、私は心配しなくても良いのです。 ·      何を飲もうか、何を食べようか、どんな贅沢をしようか、どんな楽しいことをしようか、など、自分の心が欲してしまうものについて、心を何に置くべきかについて十分注意しなっければなりません。異邦人の世界では皆このようなもを切に求めています。私たちが自分たちの心を置くところに向かって私たちは走って行くのです。何かに自分の心を置いた瞬間、それが私たちの追い求める宝物となっていきます。私たちの宝物があるところに、私たちの心もそこにあるのです。·       神様の御国を求めること。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。イエス様が私たちに望まれていることは、私たちが神様の御国を求めることです。一体、神様の御国とはなんでしょう?神様の御国とは、神様が支配し、導き、そして、与えてくださる場所です。神様の愛が注がれ、私たちの人生を溢れんばかりにする宝物があるところです。その宝物は、癒し、許し、回復、備え、導き、教え、そして、神様が私たちの人生に意図されている天にある全ての良いもののことです。
私の心を神様を求めることに置く時、

神様の祝福の倉が全て私のものになると、私は確信しています。そこで最も素晴らしいのは、それを手に入れるのにお金や時間が全くかからないということです。しかし、一方で、そのためには私の人生において神様が私の人生を治めていることが必要です。全ての完全で良いギフトが神様の御国で私を待っています。ですから、私は恐れてはいけないのです。そして、この最後の聖句が私に安心感を与えてくれています。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」素晴らしい励ましの一節です。御国は私のものです、そして、そこにあるものは全て私のものです。それを神様は喜んで私に与えてくださります。 適用:            神様が私の面倒をよく見てくださっていることを思い起こさせてくださり感謝します。私が神様の御国を追い求める時、神様は私を祝福しようと神様の倉にたくさんのものを入れてくださっています。

 祝福は私に自動的に来るものではありません。私がそれを求めていかなければいけないものです。 祝福は、ある日突然人生の中に現れるものだと思っている人がいます。ここでイエス様は、私に神様の御国を求めなさいと言われています。自分の力でそれを手に取ることはできません。それはすでに私のためにそこにあるのです。今年、私は神様の御国を求めていきたいと切望します。神様の祝福を追い求め、神様を日々忠実に求めていきます。祈り:           天のお父様、あなたとあなたの御国を求めて行くことができますよう、私を助けてください。私が恐れるたり怖がったりする必要のないことの確証を与えてくださっていることに感謝です。あなたに信頼し、私のためにあなたが備えてくださっている全てのもののために、

あなたを求めるべきであることを私に思い起こさせてくださいました。私が必要なすべはあなたのうちにあることを気づかせてくださり感謝です。あなたとあなたの御国を求める者となれるよう、私を助けてください。将来や不確実性に対する私の恐れを取り除いてください。 あなたに私の全幅の信頼を置くことができるよう私を助けてください。アーメン!