行って伝えよ

「この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、 『あなたがたはくりかえし聞くがよい、 しかし悟ってはならない。 あなたがたはくりかえし見るがよい、 しかしわかってはならない』と。 あなたはこの民の心を鈍くし、 その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。 これは彼らがその目で見、その耳で聞き、 その心で悟り、 悔い改めていやされることのないためである」。」(‭‭イザヤ書‬ ‭6‬:‭6‬-‭10)

預言者イザヤはウジヤ王が死んだ年に、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」(イザヤ書 6:1-3)

その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。 その時イザヤは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。」(‭‭イザヤ書‬ ‭6‬:‭4-‭5‬)

イザヤは自分自身の罪深さを認識していた。汚れたくちびるを持つ者として聖なる主の前に出ることは滅び得ることだと言っている。主の聖さとは本来罪と大きく別けられるものなのである。

セラピムと言われた御使いのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、イザヤのところに飛んできてイザヤの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

イザヤは罪の赦しときよめを確信した。

だから主が「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と言われたのを聞いた時、イザヤは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。 

すると主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、 『あなたがたはくりかえし聞くがよい、 しかし悟ってはならない。 あなたがたはくりかえし見るがよい、 しかしわかってはならない』と。 あなたはこの民の心を鈍くし、 その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。 これは彼らがその目で見、その耳で聞き、 その心で悟り、 悔い改めていやされることのないためである」

このように言われたのは逆説であって、主が心から願っていたのは、民の鈍い心、聞こえにくい耳、閉ざした目が、柔らかい心、よく聴く耳、よく見える目をもってしっかりと見、聞き、 悟り、 悔い改めていやされるためである。

人々の心と耳と目が開かれるために、イザヤは遣わされた。

私たちが主の言葉を語る時、人々の心が悟り、目が開かれ、耳でしっかり聞くことができるように願う。

愛する天のお父様、あなたの言葉を真っ直ぐ伝えることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。