神様にノーと決していってはいけない

聖句:

“翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。

彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。

すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。

その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。

そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。

しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」”

使徒の働き 10章9~15節

観察:

神様はペテロに、彼の文化的規範やイデオロギー、そして長老たちが守り続けてきたしきたりへのペテロのこだわりを打ち砕かれました。 神様は、私たちが期待したり、望んだりする方法と矛盾するような方法で働かれることがあります。神様は、使徒ペテロを変え、神様の恵みを受けたコルネリウスを変えました。神様がビジョンを与えたのです。 神様の計画やビジョンは、メッセージを与える人とそれを受けとる人にチャレンジを与えます。 私たちが慣れ親しんだことへの変化とチャレンジをもたらすのです。

             ペテロのビジョンはあまりにも小さく、限定的であったのに対し、神様のビジョンは大きく、遠くまで届くものでした。 ペテロが祈っている間、神様はペテロにチャレンジし、最終的にペテロを変えるようなビジョンを与えました。 神様のビジョンは、常に私たちが考えているよりも大きいのです。 神様のビジョンは、私たちが手を伸ばそうとしている相手を変える前に、私たちを変えてしまいます。 今日、私が観察したいくつかの原則は、時間をかけて熟考する価値があります。

繰り返し記したように、神様のビジョンは私たちの偏見や伝統・文化に基づく価値観よりも大きなものです。 神様は私が安住する場所の外で働かれます。第二に、神様のビジョンは、決して私の能力やノウハウに依存するものではありません。 神様だけが、そのビジョンを実現するために必要なことを私に備えさせることができるのです。 第三に、神様が不可能と言われたことを、私は決して不可能だと言ってはいけません。 ペテロは、そのビジョンが自分にはできないものであることを神様に告げました。 その幻には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいました。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえたのです。

しかし、ペテロはこう答えます。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」ペテロは、若い頃、食べるのに適していないことを学んだ、汚れた動物が入っているのに気づきました。すると、もう一度、声が聞こえます。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と。

私には、神様に対して、何ができて何ができないかを言う権利がないことを学びました。 神様はペテロに、同じビジョンを三度見せなければなりませんでした。 神様はペテロに自分のビジョンと計画を納得させるために三回も働きかけなければなりません。 ペテロにとって、三回というのは重要な数字です。 ペテロは、イエスさまに三度、愛しているかどうか尋ねられていました。 ペテロは、園でイエスさまと一緒にいたことを非難されたとき、イエスさまを三度否定しました。 私たちは、ペテロが困難にぶつかっても、それを乗り越え、神様が彼をご自身の目的のために用いてくださっていることを、ペテロの心から学ぶ必要があります。

適用:

私は今日、自分の限界のために、神様のビジョンに制限をかけてはいけないということを学びました。 私は自分の限界を超え、神様が私に願われていることを実現させてくださることを信じたいと思います。 私は、自分ではできないことをするために、イエスさまから可能性を試され、チャレンジされることを望みます。

祈り:

父なる神様、私の目を開いて、あなたの方法で物事を見ることができるように。 私の限界ではなく、あなたのビジョンと目的に信頼することができるように助けてください。 あなたがどのように考え、あなたが私に行動するよう与えてくださった力を元に行動できるように、私の心と思いを開いてください。 あなたが私に求めることは何であれ、喜んで行うことができるように、私の可能性を試してください。