主の後ろ姿なら

「そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。 わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。」(出エジプト記‬ ‭33‬:‭21‬-‭23‬)

私たちの主は聖なる方である。罪深い私たちとはまさに対極にいるお方である。私たちはどんぐりの背比べのように、誰が一番まともか比べ合っている場合ではない。

神は聖なるお方であり、私たちは本来、神を真正面から見ることはできない存在である。もし真正面から見てしまうなら、主がモーセに警告したように私たちは命を落とすことになる。主はこのように言われた。「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。」(出エジプト記‬ ‭33‬:‭20‬)

主はモーセを岩の裂け目に入り、主が通り過ぎるまで手でモーセをおおい、 主が手をのけるときになんとか後ろ姿だけは見えたくらいに、主は聖いお方なのである。

この聖いお方が私たちをご自身の民、また友として招待してくださっている。私たちが神の前に立つ時は、主を真正面から見るであろう。神の御子イエスキリストの救いを頂いた者は裁かれることはなく、永遠のいのちを得て、神の子どもとして神の国に入ることができる。

私たちが唯一神を真正面から見るには、主の救いに与ることだ。救われたことを心から喜びたい。

愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。あなたの子どもとして歩むことができる幸いをありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。