神が激しく臨まれるとき
「主はモーセに言われた、「パロのもとに行って、彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。 あなたがもし彼らを去らせることを拒んで、なお彼らを留めおくならば、 主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。」(出エジプト記 9:1-3)
私たちには神は優しく接してくれるというイメージがあるようだ。それは、おそらく神は愛などという言葉から想起されるものであろう。神が激しく臨むのも、罰を見過ごされるのも神の主権から来るものであり、私たちが決めることではない。
エジプトの王パロに対して神が激しく疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨まれたのはパロが心を頑なにして、イスラエルの民をエジプトから去らせなかったからであった。
私たちが神に激しく反発するなら、神が私たちに激しく疫病をもって臨まれるのは理に叶う。神が私たちの反抗や反逆に対して優しく忍耐深く接してくださるのなら、それは、ただ神が憐れみを示してくださっているだけである。
神は平和の神なのになぜ人が戦争や争いに巻き込まれて死ぬのを許されるのかと不平不満を言いつつ自分たちは神に敵対するなどして自分たちの問題や罪を棚に上げながら神から平和を強請るのはやはり虫が良過ぎるのではないか。
神は憐れみ深いお方であるが、神の前に頑なになり、神が命じられたことを拒むことのないようにしたい。悪い命令なら拒むべきだが、神の命令はよくよく考えてみると私たちにとって良い命令である。何よりも私たちは神の助けを得て神の言われたことを守り行うことができる。
愛する天のお父様、私たちが頑なになりませんように。あなたの良い命令を拒むことがありませんように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。