神の心にかなうこと

イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコの福音書 3:3-5)

神が定められた律法にかなうことは何か?神の律法はイスラエルの人々にとって、この問いはとても重要なものであった。

事実、旧約聖書を読むと、神の命令にかなわないことを行ったことで人々は深刻な結果を招いたことがわかる。

イスラエルの民はシナイ山で神と契約を結び、モーセを通じて律法を受け取った。しかし、モーセが山に登っている間に彼らは金の子牛を造って礼拝するなど早々に契約に違反しました。

また律法を守らなかった結果として、旧約聖書では北イスラエル王国のアッシリアによる滅亡(BC722年頃)や、南ユダ王国のバビロン捕囚(BC586年頃)といった災難が神の裁き、契約の呪いとして描かれている。

律法を守る動機が罰せられないためだとしたら、私たちは律法違反を恐れて行動することになる。しかし律法を守ることが、私たちと神の関係を強く保つためであるなら、律法を守ることよりもさらに重要なことが見えてくる。それは、この場面でイエスが言うところの、いのちを救うことである。

安息日に手の萎えた人の手を癒すことで、その人の身体的癒しだけではなく、霊的な癒しにつながるのであれば、「安息日に働かない」「治療行為をしない」という律法を遵守よりも大切なことであるとイエスは教えたかった。

当然この考え方は、律法学者やパリサイ人と呼ばれるユダヤ教の指導者たちの神経を逆撫でするものだった。だから、彼らはイエスが手の萎えた人を治すかどうか、じっと見て、イエスを訴えるための口実を探っていた。(マルコの福音書 3:1-2)

律法よりも大切なものは、神の救いである。神の救いが律法を守る前に必要なのである。神が私たちに命を与えてくださったことを知れば、律法は自然と守るようになる。

愛する天のお父様、あなたの救いをありがとうございます。あなたのみことばに従います。主イエスキリストの御名によって、アーメン。