聖霊を受ける
「エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。」(使徒行伝 8:14-17)
サマリヤでたくさんの人々が神の言葉を受け入れ、救いが起きた。そこでエルサレムにいる使徒たちはペテロとヨハネとをそこにつかわし、ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、ふたりが手を彼らの上において祈ったところ、彼らは聖霊を受けた。
ここで聖霊が救われた後の2段階として受けているように受け取れるのだが、聖霊は救われた後に、誰かに手を置いて祈ってもらわないと受けられないものなのだろうか?クリスチャンの中でもそのように考える人たちもいる。
キリスト教神学において、「救い(回心・信じること)」と「聖霊を受けること(聖霊の降臨・聖霊の内住・聖霊のバプテスマ)」の時期や関係性について大きく分けると、「救いと同時に聖霊を受ける(内住・バプテスマ)」とする立場と、「救いの後に第二の恵み(別経験)として聖霊を受ける(聖霊のバプテスマ/聖霊の満たし)」がある。
救いと「同時」に聖霊を受けるという立場(伝統的なプロテスタント改革派、ルター派、福音派など多くの教派)では、人はイエス・キリストを信じた瞬間に聖霊を与えられ、聖霊によって新しく生まれ(新生)、キリストの体に結び合わされる(聖霊のバプテスマ)と考える。「聖霊を受けなければ、誰もイエスを主と告白することはできない」という前提に基づく。根拠となる主な聖句エペソ人への手紙 1章13節「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」という箇所だ。つまり福音を「信じたことによって」聖霊の証印(印鑑・保証)が押されると書かれており、信じることと聖霊を受けることが不可欠に結びついている。
またコリント人への手紙 第一 12章13節「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つの体となるようにバプテスマを受け、みな一つの御霊を飲んだからです。」とあるが、すべての信者はイエスを信じた時に「聖霊のバプテスマ」を受けて一つのキリストの体(教会)に連なるとされている。
ローマ人への手紙 8章9節「しかし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」つまり、キリスト者(救われている人)でありながら聖霊を持たないという状態は存在せず、救われているならすでに聖霊が内に住んでいる(内住)と解釈している。
ガラテヤ人への手紙 3章2節「私はあなたがたからこのことだけを聞きたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」御霊を受けるのは行いではなく、「信仰をもって聞いた(信じた)」時であるとしている。
では、救いの「後」に聖霊を受けるという立場(ペンテコステ派、カリスマ派、一部のホーリネス運動など)では、救い(罪の赦し・新生)と「聖霊のバプテスマ(聖霊を受けること)」を区別された2つの異なる段階(経験)と捉える。
救われた信者が、宣教や奉仕のための力や賜物(異言など)を与えられるために、救いの「後に」聖霊の浸礼(バプテスマ)を受けると考える。使徒の働き 8章14-17節(サマリア人への宣教)「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ派遣した。二人は下っていって、サマリア人が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれの上にもくだっていなかったからである。そこで、二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」サマリアの人々はイエスを信じて水のバプテスマを受けていた(=救われていた)にもかかわらず、その後から使徒たちの手で祈られた時に初めて聖霊を受けたと考える。
また使徒の働き 19章1-6節(エペソの弟子たち)「……パウロは、『あなたがたは、信じたときに聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは『いいえ、聖霊がいるかどうか、聞いたこともありません』と答えた。……彼らがこれを聞いて、主イエスの名によってバプテスマを受けると、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言をしたりし始めた。」すでに「弟子」と呼ばれ信じていた者たちが、後からパウロの按手によって聖霊を受けた例として挙げられる。
使徒の働き 1章8節 / 2章4節(ペンテコステの出来事)「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)「すると全員が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、ほかの国のことば(異言)で語り始めた。」(2:4)ここでは、弟子たちはすでにイエスに従い信じていたが、イエスの昇天後(ペンテコステの日)に初めて「聖霊のバプテスマ(力)」を受けたと捉える。
このサマリヤでの出来事は、イエスを信じた時には「聖霊の内住(再生・救い)」が起きており(ローマ8:9)、ペテロとヨハネが彼らのために手を置いて祈ったことで、「聖霊のバプテスマ 」あるいは「 聖霊の満たし」が継続的に起こる発端となったのかもしれない。あるいは2段階目の特別な体験として奉仕の力や賜物の付与があったのかもしれない。
いずれにせよ、私たちは救われた時に聖霊を受けて、さらに日々聖霊に満たされることができるという考え方で整理している。この辺りは、自分の体験と共に、天国に行った時にはっきりすることかもしれない。大切なのは、聖霊を受けていることだろう。
愛する天のお父様、聖霊を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。今日も聖霊によって満たされ、罪に打ち勝って歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
