清さを失わないように

聖書:”人はみな、火によって塩気をつけられます。 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」” マルコの福音書 9章49~50節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:
            これはイエス様が弟子たちに語った言葉をマルコがこ記した興味深い箇所です。今日は「人はみな、火によって塩気をつけられます。」というみことばに注目しました。火によって塩気がつけられるというみことばに使われているこの 二つの塩と火という単語のイメージは、私に強烈な印象を与えます。イエス様がこのみことばを語る前の話を読んでいなければ、ここでの意味するところを理解するのは困難です。  
            この箇所の前の話は、イエス様は、自分の元にきた小さな幼子たちをつまずかせる者についてでした。イエス様はこのようなことを言っていました。イエス様を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいと。そして続けて、もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさいと。
            なぜイエスは私たちをつまずかせる人たちの話をして、そのように人をつまずかせる人に対し、それほど厳しく対処することを望んでいるのでしょう。英語でSTUMBLEとは、人がつまずいたり、一瞬バランスを崩してつまずいたりすることを意味します。手は助けを差し伸べることも、人を傷つけることもできます。手はものを元通りにしたり、ものを盗むことにも使われます。足は私たちを行きたくない道に向かわせたり、いるべき場所に私たちを連れて行きます。目は見るべきではないものや見るべきものを見ます。             それは実際には、他の人をつまずかせてしまうのは私たちです。また、自分たちたがつまずき、神様から離れてしまった場所に自分を戻せるかどうかは自分自身の問題です。人々は、自分がしたいと切に思っていることや、しようとしていることでつまずいています。動機が何であれ、意図的に人をつまずかせる人がいます。故意に罪に陥る場所に自らを置く信者たちもいます。
            イエス様は、「人はみな、火によって塩気をつけられます。」と言っています。これは、真剣にイエス様に従う人は誰でも、清められ、聖なる人生を送らなければならないことを意味します。  私の心の中の動機や意図は火によって塩気をつけなければなりません。イエス様は続けて言いました。「塩は良いものです。塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。」

            私たちの人生が清さを失った場合、再び元にに戻るには何をしなければならないのでしょう?それは不可能です。ですから、私たちは塩気を決して失ってはならないのです。私たちがキリストに従うとき、自分の態度と意図に常に意識を向けていなければなりません。イエス様は、「自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」と言われました。その意味するところは、塩気を失ったら、塩がある場所に戻りなさい。人と交わりを持つことで、再び塩気を取り戻すのです。
私たちは人との交わりを決して壊してはなりません。私たちは常にお互いに平和に過ごさなければなりません。私たちは、誰かのつまずきの石にならないように気をつけなければなりません。さもなければ、自分自身が危険にさらされ、清さを失う場所に自分を置くことになってしまいます。
適用:            他の人をつまずかせたり、つまずいて罪に陥るような場所に自分を置かないようにするのは難しいことを私は知っています。私は自分の動機や意図の不純さから心を守らなければなりません。私は時々、不注意で、動機や意図に任せて、キリスト者に相応しくないことをしてしまうことがあります。私は誰かのつまずきにはなりたくないですし、清さを失うような場所に自分自身を置くことを許容したくもありません。私には日々キリストと聖霊の働きが必要です。  
祈り:            イエス様、意図的に他の人をつまずかせ、あなたから離れさせるような人から私を遠ざけてください。あなたの聖霊、そしてどうしたら私の人生におけるあなたの毎日の臨在に敏感な人になれるのか、私に教えてください。私が清さを保ち、常にあなたと周りの人を尊重する人になれるように助けてください。アーメン!