日曜日のクリスチャンでなく、イエス様の弟子になろう

聖書:”それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」” マルコの福音書 8章34~38節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:
            イエス様は群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」と言われました。十字架の道は群衆と弟子との違いを規定します。群衆はそれぞれ個人的な好奇心に導かれイエス様のもとに集まっています。 群衆は自分が選んだイベントに参加します。 群衆は誰か有名人がくれば、その有名人を目がけ追いかけます。その人が有名であればよいのです。それが誰かは問題ではありません。  彼らは、何かが起きていて、それが彼らの心を満たしてくれると思う出来事につられていきます。
            しかし、弟子は違います。弟子とは、教師として仰ぐ生徒、またはリーダーを慕い彼らに従う者たちのことです。弟子は、「学ぶ人」を意味するラテン語の「discipulus」に由来します。ここに違いが存在します。 群衆は規律を得るために払う犠牲を考えたりする必要はありません。彼らは、ほとんどの場合、何も考えずに盲目的に従っているのです。彼らは群衆についていきますますが、自分の財布の中身以外に永遠の価値のあるものを犠牲にするようなことはありません。は何もかかりません。 彼らには、従うべきリーダーや、何かを学ぶことの出来るリーダーは存在しません。
            しかし、弟子は自分の師匠に従わなければなりません。 弟子というは群衆が追いかけている多くのものを拒まなければなりません。群衆は世の中の色々な誘惑について行きます。しかし、弟子とは、世の中の誘惑に自らを委ねたり世の中にあるものを手に収めることを望む人ではなく、自分の師事する先生に従う人生を生きる人のことです。このようにして、イエス様は彼らの前に選択を示し、その選択の結果がどうなるかについて語られています。  
            群衆と同じ行動し、世の中の人たちが欲しているものを手に入れることに熱心になっていれば、自分の魂を失うことになってしまいます。もしくは、イエス様とそのみことばに恥じない弟子になることを選択することも可能です。群衆は広い道を歩むことを選択します。弟子たちは狭い道、規律ある道、そして世の中の人たちは目もくれない道を選び、神様のみことばを恥じることはありません。  イエス様は、「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」と言われました。しかし、イエス様に従う弟子は自分の十字架を背負うこと選択し、狭い道を歩まなければならないのです。  弟子は常に、先生が喜び、尊ばれるものを選択するのです。  狭い道を選ぶということは、群衆心理から離れ、キリストを中心とした心を持つようになり、姦淫で罪深い世俗的な生活ではなく、規律をもって神様の生き方にかなった生活にフォーカスすることを意味します。
適用:            私はこの選択を毎日思い起こします。私は世の中の誘惑を追い求める群衆に従うのではなく、イエス様の弟子になることを決心します。私はイエス様との関係やイエス様のみことばを決して恥じたりしません。私は心からイエス様に従い、イエス様について学び、教えられ、導かれることを選びます。私は群衆の中に自分を置いて、自分の人生を無駄にしたくありません。私はキリストに従うことを決心します。  
祈り:            イエス様、今日は群衆と共に動く人とあなたの弟子になることを選ぶ人の違いを私に思い起こさせてくださり感謝します。あなたの弟子として考え、生きるのではなく、群衆に追随してしまっていることが何度もある私を許してください。あなたに尊ぶ選択ができるよう、あなたが私を教え、導き、強めてくださることを期待します。 ただ従うのではなく、常に学ぶ人でいられるよう助けてください。どうしたら自分を捨ててあなたのすべてを求める弟子になることができるのか、私に教えてください。  アーメン!


聖書:”それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」” マルコの福音書 8章34~38節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:
            イエス様は群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」と言われました。十字架の道は群衆と弟子との違いを規定します。群衆はそれぞれ個人的な好奇心に導かれイエス様のもとに集まっています。 群衆は自分が選んだイベントに参加します。 群衆は誰か有名人がくれば、その有名人を目がけ追いかけます。その人が有名であればよいのです。それが誰かは問題ではありません。  彼らは、何かが起きていて、それが彼らの心を満たしてくれると思う出来事につられていきます。
            しかし、弟子は違います。弟子とは、教師として仰ぐ生徒、またはリーダーを慕い彼らに従う者たちのことです。弟子は、「学ぶ人」を意味するラテン語の「discipulus」に由来します。ここに違いが存在します。 群衆は規律を得るために払う犠牲を考えたりする必要はありません。彼らは、ほとんどの場合、何も考えずに盲目的に従っているのです。彼らは群衆についていきますますが、自分の財布の中身以外に永遠の価値のあるものを犠牲にするようなことはありません。は何もかかりません。 彼らには、従うべきリーダーや、何かを学ぶことの出来るリーダーは存在しません。
            しかし、弟子は自分の師匠に従わなければなりません。 弟子というは群衆が追いかけている多くのものを拒まなければなりません。群衆は世の中の色々な誘惑について行きます。しかし、弟子とは、世の中の誘惑に自らを委ねたり世の中にあるものを手に収めることを望む人ではなく、自分の師事する先生に従う人生を生きる人のことです。このようにして、イエス様は彼らの前に選択を示し、その選択の結果がどうなるかについて語られています。  
            群衆と同じ行動し、世の中の人たちが欲しているものを手に入れることに熱心になっていれば、自分の魂を失うことになってしまいます。もしくは、イエス様とそのみことばに恥じない弟子になることを選択することも可能です。群衆は広い道を歩むことを選択します。弟子たちは狭い道、規律ある道、そして世の中の人たちは目もくれない道を選び、神様のみことばを恥じることはありません。  イエス様は、「だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」と言われました。しかし、イエス様に従う弟子は自分の十字架を背負うこと選択し、狭い道を歩まなければならないのです。  弟子は常に、先生が喜び、尊ばれるものを選択するのです。  狭い道を選ぶということは、群衆心理から離れ、キリストを中心とした心を持つようになり、姦淫で罪深い世俗的な生活ではなく、規律をもって神様の生き方にかなった生活にフォーカスすることを意味します。
適用:            私はこの選択を毎日思い起こします。私は世の中の誘惑を追い求める群衆に従うのではなく、イエス様の弟子になることを決心します。私はイエス様との関係やイエス様のみことばを決して恥じたりしません。私は心からイエス様に従い、イエス様について学び、教えられ、導かれることを選びます。私は群衆の中に自分を置いて、自分の人生を無駄にしたくありません。私はキリストに従うことを決心します。  
祈り:            イエス様、今日は群衆と共に動く人とあなたの弟子になることを選ぶ人の違いを私に思い起こさせてくださり感謝します。あなたの弟子として考え、生きるのではなく、群衆に追随してしまっていることが何度もある私を許してください。あなたに尊ぶ選択ができるよう、あなたが私を教え、導き、強めてくださることを期待します。 ただ従うのではなく、常に学ぶ人でいられるよう助けてください。どうしたら自分を捨ててあなたのすべてを求める弟子になることができるのか、私に教えてください。  アーメン!