神様のおられるところには安息がある

聖句:”さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」 主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。” 出エジプト記 33章12~15節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:

              モーセはイスラエルの民の先頭に立って彼らを導くことに少なからず不安を感じていました。神様が、「この民を連れ上れ」と言われた言葉を神様に思い出してもらおうとします。また、誰かを自分と一緒に遣わしてくれていないことを神様に訴えています。これまで神様がモーセを通してしてくださった多くのことを目にしていた後も、モーセは神様の臨在について葛藤を覚えていました。

             モーセは、神様が彼にご自分の民をエジプトから連れ出すように召された時から、神様が起こされた数々の奇跡を見てきました。彼がリーダーとしては適任ではなく、そのポジションに相応しくないと感じていた時、神様はアロンをモーセのもとに送られました。ファラオの前に立ち、大いなる奇跡を何度もファラオに見せていた時ですら、彼は、神様の臨在について神様が一緒にいてるれているのかどうか、葛藤を覚えていました。イスラエルの子らがエジプトの軍隊と紅海の間に挟まれ右往左往している時、神様が海の水を裂き、彼らは乾いた地を向こう岸まで歩くことができました。

              問題は、神様がやると言われたことをいつも実現したその事実を、どうして人は忘れることができるのでしょう?神様がされたすべてのことは、神様の臨在の証です。神様が人に何かをするようにと召される時はいつでも、その人は決して一人ではないことをこの箇所から学びます。神様は一人で私たちを召されることはありません。神様がされることの中に参加するように私たちを召されているのです。要は、神様が全てをなさるということ。神様が私たちから求めるのは、私の従順さだけです。

              私があることについて神様からの召しを感じ取る時、ご自分が私に命じられたことについて常にそこにいて見守ってくださっていることを知るのは感謝なことです。ある時は、自分がモーセのような立場にあります。何かをするようにと召されていますが、時々そこに神様がいてくださっているのか不安になることがあります。私の人生を通して、私は主とともに歩み、主の力が働かれ、主の目的が果たされていることはとても祝福なことです。後から振り返ってみると、自分が召されたことについてどうやってそれが果たされていったのか、不思議に思うことがあります。 

             私は、神様がモーセに確信を与えようと、こう語ったその言葉が大好きです。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
言い換えれば、私たちは誰かいないかと周りを見回す必要がないのです。他の人があなたのことを呼んだわけではない。私があなたに私の民を連れ出すようにと召したのだ。私があなたとともに行く。他の誰もあなたには必要ではない。そして、何より、私はあなたを休ませる。なんと素晴らしい召でしょう。 これは、主に仕えることにはストレスがないということです。 力仕事は常に神様がされます。神様は私たちにそこに加わるように召されるのです。

              モーセは誰も彼と共に行く人はいないと思い、かなりストレスを感じていました。神様は常に私たちに神様のうちに休むように召しています。神様のうちに休むということは、神様に信頼することに他なりません。 神様に信頼するということは、神様の臨在が常に私たちと共にいて、私が決して一人ではないことを知ることです。このことは、神様が私たちに召しを与える時、神様の臨在が私たちと共にあることの大いなる気づきです。私は、神様がずっと私たちを守ってくれることの確信を持つ必要があるのです。神様の召命が全てであり、その召についてストレスを感じる必要がないということを知るというのはなんという安心を与えてくれることでしょう。 

適用:

             モーセのように、私は、神様がご自分の召命をまっとうするために私を導いてくてているその場所に神様の臨在があることを知り、神様のうちに休む必要があります。 神様の約束の結果が何も見えていなくても、神様の言葉を信頼し、神様のうちに休むことを学ばなければなりません。私は、不安に感じ、自分には神様がするようにと言われていることに相応しくないという感覚を持っていたモーセのようであることを自覚しています。 神様のことを信頼し続け、神様が私に求めていることがどんなことであっても、そのうちに神様に従いつくけていきます。私がすることの中に神様がいないのではという感覚にとらわれることなく、神様の臨在のしるしを求めていきます。

祈り:

              イエス様、あなたの臨在が常に私と共にあることを思い起こさせてくださり感謝します。あなたがそこにいてくださるゆえに、あなたに仕えることがストレスになることはないことを私に気づかせてくださり感謝します。あなたのみことばのうちに安心感を得て、あなたのタイミングを信頼することができるよう私を助けてください。 あなたが私にするようにと召されていることの中で、私にはあなたの他に誰も一緒にいてくれなくても大丈夫であることの気づきをいつも私に与え続けてくださるよう祈ります。どうか、私があなたに仕えるとき、あなたの臨在と安息を確信しながら歩むことができますように。アーメン!