あなたは神様のみわざを現す器

聖句:

“さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。” ヨハネの福音書 9章1~12節

観察:

            生まれつき目の見えない人がいました。弟子たちはイエス様にこう尋ねました。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 イエス様は答えられます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」イエス様の答えは、私たちは皆何かしらの目的を持って生まれてきていることを教えてくれています。人が身体的な障害を持っている人たちを見て、愛の神様がなぜ障害を持った人を造られているのだろうかと不思議に思うことがあります。

           障害を持って生まれたのはその人の両親が過去に悪いことをした咎であるという思いを持つ人が大勢います。しかし、イエス様は違った見方をしています。障害を持った人たちも神様にの目には尊い存在として映っているのです。神様が彼らを愛していないとか大事に思っていないという理由で、彼らが障害を持って生まれてきたわけではありません。人々が思っている以上に、彼らの存在には何らかの意味があるのです。私たち皆、私たちの存在以上の何かの目的のために存在しているのです。

           私がここに生きているのは、自分の楽しみや、自分だけの目的のためではありません。神様が持っている私の人生への目的があるからこそ、私がここに存在し生かされているのです。私がそのことを理解していれば、私に身体的障害があろうが、たくさんお金を持っていようが、また、一流の大学を卒業していようが、そのようなことはどうでもよく思えるはずです。 

            イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」と言われました。イエス様は常にご自分のみ父の働きと目的を意識して行動していました。目の見えないこの人の存在は、神様のみわざを現すためだったのです。神様は完璧な人を通して、ご自身のみわざを現そうとされていません。みわざを現すため、すべてを兼ね備えた人を探されてはいません。自分がどう見えるかばかり気にしている人たちと神様は一緒に働くようなことはありません。自分たちも何らかの障害や欠点があることに気づいていない人たちに神様は興味がないのです。

            神様は常に、可能性を持っていないように思える人、資格のない人、障害のある人、環境にうまく適合できない人たちを使って、ご自身の力ある目的の数々を現そうとされます。私が、金持ちの家庭に生まれようが、崩壊した家庭に生まれようがそれらは関係ありません。両親の問題も関係がありません。すべて、私の存在するイエス様の意義と目的に関係しています。

           なぜ神様が社会に適合できない人たちを使っているのか、この世は知るよしもありません。イエス様は、この目の見えない人を通して、人々がその神様のみわざを見ることができるようにと、みわざを現されました。 自分が生まれた時、自分の人生がどうなっていくのかは問題ではありません。イエス様が私を見つけ、神様の目的のために私の人生の中で、みわざをされることが大切なことなのです。

            イエス様はこの人の目を開けられました。そして、彼の住んでいたコミュニティーの誰もがそのことを目にしました。イエス様は、自分がこの世にいる限り、私はこの世の光であると言われています。私の人生の中にイエス様がいる限り、イエス様は私のハンディキャップを神様の栄光のために使っていかれるのです。聖書はこう教えています。「 しかし、神は、、知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント人への手紙 1: 27 )

           今日のポイントは、私がこの世にどのように生まれてきたかは大切ではないこと。大切なのは、私がなぜこの世に生きているのかを知り、私の存在の神様の目的を神様が達成していくことを知ることが 大切なのです。私の欠点、不完全さ、未熟さ、そして、罪にまみれて私は存在しています。しかし、それをすべて飲み込んで、イエス様は私の人生において、神様の偉大なみわざを現し、ご自身の目的を達成されるのです。

適用:

            私がなぜここに存在するのか、そして誰の目的のために生きているのかに気を配っていたいと思います。私がここにいるのは偶然ではなく、また、誰かの行為の結果によるものでもありません。神様のご計画と目的があって私は存在し、私のハンディキャップを通して、神様は私の人生にある神様の目的を現されます。多くの人たちが自分たちの欠点や無能さに目を止め、自分は価値のない人間だと思ってしまっています。周りの人たちは、自分の無能さを見て、自分の価値を判断しているのかも知れません。しかし、神様は、どうして私がそのありようのままで造られているのかをよくご存知です。それは、私を通して、神様の目的が現されるためなのです。私は、人生を通して、神様が神様の喜びと目的を現すための器となり続ける人間でありたいと願っています。

祈り:

            イエス様、あなたが私について間違って私を造られたのではないことを気づかせてくださり感謝します。人が私の欠点を見てそれを神様のミスとして捉えてしまうことがあるかも知れませんが、あなたは私のことをあなたのみわざを現す器として価値のある存在と見てくださっています。自分がこの世にいることは、自分の目的のためではなく、あなただけの目的のために生かされていることを知ることができるよう私を助けてください。他の人の目には価値のないように見えても、あなたが価値を認めてくれる私の様な者を使ってくださるあなたの優しさに感謝します。アーメン!