難しくてもイエス様の教えに従うこと

聖句:

“これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。” ヨハネの福音書 6章60~71節

観察:

            イエス様にはたくさんの弟子たちがいました。しかしながら、イエス様の教えを受け入れることのできない弟子たちも多くいました。イエス様が、自分が命のパンであり、自分を食べる者は永遠に生きるという言葉を弟子たちが聞くと、 ある弟子たちはこう言いました。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」  これはイエス様の弟子たちがイエス様のこの言葉を受け入れられないという思いを綴った面白い出来事です。ひどい話。これはある意味的を得た発言です。イエス様の教えはそんなに簡単なものではありません。自分が弟子である本当の意味を心の奥底に問いかけているという観点からは、イエス様の教えはとても難しいものです。

            イエス様から何かをもらえるから、私はイエス様に従っているのでしょうか?それとも、イエス様とはどんなお方であるか、すなわち、命のパンであるから私はイエス様に従っているのでしょうか?イエス様が優しい言葉をいつもかけてくれて、そこから何か自分の益になるようなものを得られるから従うのでしょうか?それとも、イエス様が神の子であるから、イエス様に従うのでしょうか?イエス様が私の救いのために十字架の上で自分の体を裂いた事実、そのイエス様が命のパンであることを、私は信じているでしょうか?

            私が考えさせられたのは、このイエス様の発言自体ではありません。むしろ、弟子たちがイエス様に向けた「一体誰が聞いていられるだろうか?」という質問・疑問です。それは言い換えれば、彼らは自分の聞きいていることを自分で取捨選択しているということにほかなりません。彼らはイエス様のその教えを聞いて、それを受け取り、そこから学ぶこともできたはずです。また、彼らがしたように、その発言はひどい話だと疑問視し、教えを拒んでしまう選択がありました。イエス様の教えは、私を幸せにするためのものではなく、私の気持ちを軽くしてくれる話がたくさんあるわけでもありません。それは私を神の子となるように導く真理についてであり、信仰に関してのものです。

           イエス様は、「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエス様の言葉は私の興味をそそるためものでも、耳を喜ばせるものでもありません。それは、人生を変える言葉です。 これは、弟子たちが本物かどうかをテストするものです。すなわち、私はイエス様の教えを受け入れるかどうかというチャレンジです。この質問への私の答えが、私がイエス様の本当の弟子であるか、また、本当にキリストに従う者であるかを決定するのです。悲しいことですが、イエス様は誰が本当にイエス様を信じているか、誰がそうでないかをすでにご存知です。多くのクリスチャンは、本当の意味で、キリストの弟子とは言えません。 

            イエス様の難しい教えを受け入れることのできなかった多くの弟子たちは、イエス様のもとから離れ去りました。ある弟子たちは、イエス様から自分の聞きたいことだけを求めています。しかし、本当の弟子というのは、み父である神様から引き寄せられた人たちです。ですから、その様な人たちは、イエス様の教えがどんなにひどく聞こえていたとしても、それを喜んで聞き、受けとろうとします。 クリスチャンと自分を呼ぶ人たちは大勢いますが、ある人たちは、イエス様の教には同意できず、受け入れることに困難を覚えるイエス様の教えには拒否反応を示します。私がイエス様の難しい教えを受け取ることができないとしたら、自分をごまかし、弟子であると呼ぶべきではないと気づかなければなりません。  

           弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエス様とともに歩もうとはしなくなりました。それで、イエス様はご自分が選ばれた十二人の弟子たちにこう言いました。「あなたがたも離れて行きたいのですか」十二弟子たちと他の弟子たちの違いはイエス様の問いかけに対するペテロの答えにあります。

            「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 正しく、このペテロの言葉こそが、私が弟子としてのコーリングへの応答であるべきものです。あなたが永遠の命の源であるとしたら、私はどこにいけるのでしょう?イエス様へのペテロのこの発言に私は大いに励まされます。 これが、キリストの本当の弟子と、ただイエス様についてまわっている人の違いです。違いは私がどちらを選ぶかです。キリストのみことばを受け取ることを選ぶという選択です。イエス様はペテロにこう言っています。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 イエス様は、彼が選んだ弟子たちの中にでさえ、彼に敵対する決断をする人がいることをよく知っておられました。真面目な弟子を装いながら、真理から離れ去ろうとするのがイスカリオテのユダであることを、イエス様は知っていたのです。

適用:

            イエス様から自分が欲しいものをもらえるという理由だけでキリストについていくことができるという思いを持った人がいるという現実に私はチャレンジを受けました。しかしながら、人生でのイエス様の教えの全てを受け入れる決意をもって、自分が召されていることを本当に知る弟子でなければならないということが深く心にささりました。イエス様のみことばは霊であり、命です。イエス様のみことばに私自身を従わせ、みことばを理解することが難しくても、その教えの全てをしっかり受けいれます。

祈り:

            イエス様、私が霊であり命であるあなたの教えの全てを受け入れ、あなたの本当の弟子となるためにはどうしたらよいか私に教えてください。あなたの言葉を素直に受け入れ、あなたのみことばに真摯に従う者となれますよう、私を助けてください。あなたのみことばは霊であり命でありますから、あなたのみことばを受け取ることを切に望みます。あなたに喜ばれる弟子となれるよう、私の一日一日をあなたにコミットしていきます。アーメン!