罪からのきよめ

「いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」(‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭10‬:‭1‬-‭4‬)

イエスキリストの十字架は私たちの罪をきよめる。このきよめは一度きりに必要であり、繰り返しするものではない。キリストも二千年前、十字架で死んだのは一度きりであった。死んでよみがえられ、天に昇られた。キリストは毎年、何度も繰り返して私たちの罪の贖いをする必要はない。今日の私たちの罪、また未来に犯すかもしれない罪のために、キリストは二千年前に十字架について死んでくださった。

しかし律法には限界がある。律法は私たちを救うことはできない。律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引き続きささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできない。律法によって救われた人はおらず、また律法そのものが私たちを救うことはないのに、なぜ私たちは律法にこだわり、神の恵みを見ずに、律法主義になって他人をさばいてしまうのか?

私たちは神の恵みに目を向けなくてはならない。神は私たちを救い、罪からきよめてくださる。救いは一度きりであり、永遠であり、私たちは神の前にきよくされた者として永遠に変わることのないアイデンティティをいただいた。

愛する天のお父様、あなたの救いと、罪からのきよめを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。