自由

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ人への手紙‬ ‭5‬:‭13‬, ‭16‬, ‭22‬-‭24‬)

私たちには自由が与えられている。この自由は、愛をもって互いに仕えるための自由であって、肉の働く機会ではない。

18世紀以来、アメリカには移民が政治的、経済的、思想的、宗教的自由を求めてやってきた。今年も南米から大挙をなして米国に移民たちがやってきたが、不法入国した移民たちが路上生活を余儀なくされている。

人々があらゆる自由を手に入れた時、果たしてその自由をどのように使おうというのだろうか?何を食べ、何を飲み、何を語り、何をするのも自由であるが、この自由を、ただ自分の肉の満足のために用いるのは、実に虚しいことではないか。

パウロは愛をもってお互いに仕えるために、与えられた自由を用いることが、パウロを通して神が私たちに命じられたことである。

ではどのように愛をもってお互いに仕え合うことができるのだろうか?それは、御霊によって歩くことである。

御霊、つまり神の霊、聖霊によって歩むとき、私たちは愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制という実を結ぶ。これを御霊の実という。

私はキリストから与えられた自由を、愛を表し、喜びながら、平安に満たされ、寛容な心で、慈愛に満ち溢れ、善意をもって忠実かつ柔和な心で自制しながら人々に仕えていきたい。

愛する天のお父様、あなたの愛を感謝します。どうかあなたの愛をもって人々に仕えることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。