安息日を覚えて聖とする

「そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。」(‭‭ルカによる福音書‬ ‭6‬:‭9‬)

イエスがある「安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。

 イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。

 そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。 そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。」(ルカによる福音書‬ ‭6‬:‭6‬-‭11‬)

律法学者やパリサイ人たちは、安息日を極端に解釈して、麦の穂をつみ、手でもみながら食べることや、右手のなえた人を癒す行為を、律法違反と見なした。

彼らはモーセ律法である、「安息日を覚えて、これを聖とせよ。 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。」‭‭(出エジプト記‬ ‭20‬:‭8‬, ‭10‬)という戒めの真髄を理解していなかった。だから彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめたのである。

イエスが安息日に麦の穂をつみ、手でもみながら食べたり、また右手のなえた人を癒す行為を「善いこと」とし、「命を救う」素晴らしいことだと言った。

安息日に食事を食べることも、人の病を癒やすことも、人の命を救うことも善いことであり、主なる神を聖とすることである。

主の律法を間違えて解釈するのは恐ろしいことであり、場合によっては人を傷つけ、殺すことになりかねない。律法は養育係であって、取り締まる警察官でも、罪に定める裁判官でもない。私たちの神は憐れみ深いお方である。

私たちは週一日に限らず、絶えず、朝ごとに主を聖とすることができる。今日も主を聖とし、主のみわざを表されるのを心待ちにしたい。

愛する天のお父様、私たちが何をするにも、いつするにしても、あなたを聖とすることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。