清水
「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。」(エゼキエル書 36:25)
エゼキエルを通して主が言われた「清い水」は、イスラエルの汚れや罪を洗い流し、綺麗にする良い物という意味がある。
旧約聖書では、大祭司が会見の幕屋に入る際に、拝殿の前に水を入れた洗盤が置かれ、そこで物理的な水(H2O)を使って汚れた身を清めた。「そして、アロンは会見の幕屋に入り、聖所に入る時に着た亜麻布の衣服を脱いで、そこに置き、 聖なる所で水に身をすすぎ、他の衣服を着、出てきて、自分の燔祭と民の燔祭とをささげて、自分のため、また民のために、あがないをしなければならな」(レビ記 16:23-24)かった。
汚れは穢れとも書き、神道でもキリスト教でも死を穢れとして扱う。だから死体に触れた者は穢れるので、水による清めが必要であった。また律法に準じないものは穢れているとされた。イスラエルの民が犯した偶像礼拝という罪も律法に反するから穢れと定められた。律法規定に照らし合わせて、私たちや物品が清いか穢れているかを判断されたことがわかる。
今日、私たちはイエスキリストの十字架の贖いによって信仰によって罪を赦され、清い者とされる。キリストが私たちの罪を身代わりに背負われて死んでよみがえられたので、キリストを信じるすべての人は罪を赦され、清められる。
ヨハネの第一の手紙 1:7に、「…御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」とある。イエスが十字架の上で息を引き取った時、「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。」これはイエスが流された血は血による贖いを象徴し、流された水は私たちを罪の穢れからきよめられたことを象徴するものではなかろうか?
かつては儀礼によって穢れを清められていたイスラエルの民も、イエスキリストの十字架によって、 私たちの罪を赦され、清められる。私たちを清めてくださる主に感謝して歩みたい。
愛する天のお父様、あなたは私たちを清めるために、御子イエスを私たちの罪の代価として、ささげてくださいました。あなたは御子イエスを救い主として信じる信仰によって私たちの罪を赦し、清めてくださいます。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。