雪のように、羊の毛のように

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、 雪のように白くなるのだ。 紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。 もし、あなたがたが快く従うなら、 地の良き物を食べることができる。 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、 つるぎで滅ぼされる」。 これは主がその口で語られたことである。」(‭‭イザヤ書‬ ‭1‬:‭18‬-‭20‬)

雪のように、羊の毛のようになるのは私たちの罪の話である。たとえ私たちの罪が緋のようであっても雪のように白くなり、紅のように赤くても羊の毛のようになると言われた。赤に染まったものが白くなるためには綺麗に洗い落とす必要がある。

私たちの罪は自分の力では拭えないし、洗い流すことはできない。神が真っ新にしてくださらなければ、決して白くならない、清くならないのが、私たちの罪や汚れである。

罪とは犯罪のことではない。罪とは私たちが主に従おうとしない心、信じようとしないこと、神よりも自分や他のものを頼ることである。

姦淫の罪は不倫関係や肉体関係を指すのではない。それ以前の女性を情欲の目で見ることや空想に耽ること、性欲を自分のためだけに満たそうとすることである。

窃盗の罪は、他人のモノを許可なく持ち去り、自分の益のために使うことだけではない。他人の手柄や時間、スキルや労力を自分のために使うことが窃盗である。他人のものを羨ましく思い始めたり、今与えられているものに対する感謝を失い始めると盗みの誘惑が強まる。

自分の罪深さについてどれだけ考え、理解しているだろうか?それを悟らせて下さるのが私たちの主であり、聖霊である。

罪から来る報酬は死である。しかしイエスの十字架の贖いが自分の罪の代価であったことを信じ、心に受け入れるのなら、私たちの罪は赦され、雪のように羊の毛のようにきよい者としてくださる。私たちを不義ではなく義と認めて下さる。ただ感謝しかない。

愛する天のお父様、あなたの御子イエスの十字架のあがない、信じる者に与えられる罪の赦しを感謝します。私たちの罪はイエスの身代わりの死によって完全に赦されました。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。