要の石
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
「家を建てる者たちが捨てた石」とは役に立たない石である。
イエスは自分を指して家を建てる者たちが捨てた石と言い、しかしながら要の石だとも言われた。家を建てる者たちが捨てた石だと言うのは、イエスがユダヤ人たちから見て、無価値、異質なもの、目障りなものに見えたということである。
イエスはぶどう園の主人、しもべ、息子、そして農夫との関係にたとえて、神と預言者と御子イエスとパリサイ人との関係性を話された。詳しくは下記の聖書箇所の通りである。
「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。 」
イエスがこの話はなされた時に、祭司長たちやパリサイ人たちは、自分たちのことをさして言っておられることがわかり、彼らは「 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイによる福音書 21:46)
イエスは、祭司長やパリサイ人といったユダヤ人、また多くの人々の目から見て「家を建てる者たちが捨てた石」のような存在として見られたのだが、神の目から見て「要の石」のような存在、建物の基礎となる最も大切な存在であり、イエスを神の御子、私たちの罪のために死なれた救い主だと信じる者たちにとっては「要の石」となられた。
イエスキリストは私にとって要の石として人生の基礎の部分から支える存在。私のなすことすべてにおいて、キリストの救いがある。永遠の生命の約束に従い、神の子どもとして歩み続けたい。
愛する天のお父様、イエスキリストは私の主、救い主です。イエスキリストの御名によって、アーメン。