イエスにつまずかない者は幸い

「わたしにつまずかない者は、さいわいである。」(マタイによる福音書‬ ‭11‬:‭6‬)

イエスにつまずかない者は幸いであるということは、イエスにつまずく者もいたということだ。

躓く(つまずく)とは、「足が引っ掛かって転ぶ」という意味と、「怒る、腹を立てる、感情を害する」という意味もある。

イエスに対してなぜつまずくのか?多くの人々は、イエスの働きのスタイルが、自分たちの期待と一致しないことで不快を感じ、社会的慣例にそぐわないやり方に対して人々は気分を害した。

盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている(‭‭マタイによる福音書‬ ‭11‬:‭5‬)ことは、社会の支配者層にとっては気に食わないことである。また罪人の回復や苦しみからの解放は、政治的解放を求める人々には関心の薄い話である。

ある安息日にイエスは自分の郷里の会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコの福音書 6章1-3節)

郷里の人々はイエスにつまずき、尊敬を表さなかった。だからイエスは「何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。」人々がイエスにつまずき、イエスを救い主として信じようとしなかったからである。

「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(マルコの福音書 6章4-6節) 

私たちはイエスを神の御子と信じるだろうか?それともつまずくだろうか?また、イエスを救い主として信じるだろうか、それとも十字架刑で死んでしまった古代中東の宗教家と捉え、それ以上考えられないのだろうか?

イエスが「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と言われた通り、イエスを信じて従う者には、救いは希望であり喜びである。

愛する天のお父様、あなたの御子イエスは私たちの救い主であると信じます。あなたの救いを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。