のがれの町

「あなたがたのために町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。 これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。」(‭‭民数記‬ ‭35‬:‭11‬-‭12‬)

人を殺めると重大な罪となる。2004年に改正された日本の現行刑法によると、他人を殺す殺人罪は死刑または無期もしくは5年以上の懲役(刑法199条以下)と規定されている。旧刑法ではフランス刑法を範として、一時の激情によって殺意を生じて人を殺す故殺と、計画的な謀殺と区別されていた。  

殺人罪は他人の生命を故意に奪う罪なのだが、殺人未遂および予備も処罰され(203条および201条)、自殺幇助(ほうじょ)や嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者も6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する(202条、自殺関与及び同意殺人。以下、自殺関与罪)と定められている。

ただ故意がなければ傷害致死罪(傷害罪)または過失致死罪となり、刑は軽く、罰金となる。殺意もしくは故意の有無で懲役かどうかが判断されるようだ。

人という概念の定義も、人の始期は妊娠からなのか、胎児の身体の一部が母体から露出した時なのか、また人の終期は脳死なのかと生命倫理上の議論が未だ続く。

さて、のがれの町はイスラエルにおいて傷害致死罪または過失致死罪に問われる加害者を保護する場所として6箇所設けられた。当時は町の祭司が裁判や刑罰を執行したので、誤って殺害した場合は、祭司の下に保護されることができた。

遺族の心情を考えれば複雑な思いはあるだろうが、加害者が不当な被害者とならないための配慮なのかもしれない。自分も自分の家族も、いつ被害者または加害者になってもおかしくない。のがれの町という存在とその救済処置には意味深いものを感じる。

救い主イエスキリストは私たちの過失のみならず、故意に犯した罪も自分の血による贖いによって赦してくださった。大祭司イエスの下では私たちは生きることができ、しかも義と認めてくださるのだから神の心の広さや大きさに驚かされる。

愛する天のお父様、あなたは私たちの生まれ持った罪を赦し、御子イエスキリストの血によってあがなってくださいました。私が自分の罪を赦された者であることを忘れずに生きることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。