偶像モレクよりも偉大な神

「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。 わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。 その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、 わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。』」(‭‭レビ記‬ ‭20‬:‭2‬-‭5‬)

モレクとは、フェニキア人たちが経済的繁栄を求めて長男をいけにえとして捧げた偶像である。偶像は神ではなく、人が作ったものであり、人が勝手に神として崇拝する対象だ。偶像礼拝は、神でないものを神とし、神に対して反逆するから、神が忌み嫌われ、そこには悪霊が働く。

偶像礼拝に関して主は言われた。「わたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚した」。偶像礼拝は、姦淫と同じで、既婚男性が妻では愛人のもとにいくようなものである。このようなことは快楽であって誰も幸せになることができない。偶像礼拝は「汚れ」であり、「聖なる」ものからかけ離れている。主が偶像礼拝も姦淫も忌み嫌われるのは、イスラエルの民は神の民とされたからであり、姦淫は結婚からはみ出す行為だからである。

主が「殺されなければならない」、「民のうちから断たなければならない」と命じたのは、それだけ偶像礼拝は神との関係性を決定づけるものであり、その深刻さを物語っているからである。

主なる神との関係を損なう偶像礼拝によって人々が殺されたり、民から断たれてしまうのは当然の報いである。しかし神はその一歩先、その遥か上を行く。それは神が憐れみを示して殺さず、また民のもとに帰ってくるのを許されるということだ。偶像礼拝は罪だが、その罪を悔い改めによって赦してくださるというから驚く。

神の愛は、神の罰よりも比べることなどできないほど大きい。罰せられて当然の私たちをイエスキリストの十字架のあがないの故に、そのことを信じる者を赦してくださる。私たちの神の愛はとてつもなく大きい。

愛する天のお父様、あなたの偉大な愛、真実の愛、永遠の愛を感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。