見習いたい習慣

「主はまたモーセに言われた、 「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしはあなたがたの神、主である。 あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。 わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。」(‭‭レビ記‬ ‭18‬:‭1‬-‭5‬)

日本には「郷に入ったら郷に従え」という成句があり、

それは、「その土地(又は社会集団一般)に入ったら、自分の価値観と異なっていても、その土地(集団)の慣習や風俗にあった行動をとるべきである」という意味である。

その郷に入ったら従うべきかどうかは当然自分で判断しなければならない。なぜなら首を傾げるような慣習や奇行もたくさんあるからだ。

イスラエルを取り巻く環境も偶像礼拝や人身のいけにえがささげらていた。カナン人あるいはフェニキヤ人は豊穣や多産の偶像バアルやアシュタロテを拝んだ。また性的な儀式に加えて、モレク礼拝には子供のいけにえを捧げる、又は「子供を火の中をくぐらせる」ことが含まれていた。夫婦は長子を捧げる時、モレクが家族と将来の子供たちのために経済的繁栄を確かにしてくれると信じていたからである。エジプトでは太陽や月を神として拝んでいた。これらは人間が作り上げた偶像である。

イスラエルの民には、生きて働く真実の神がおられた。

だからイスラエルの民に向かって、「彼らの定めに歩んではならない。 わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。」と言われたのである。

主のおきてを行うならば、これによって生きると主は言われた。「わたしは主である」と言われる神がそう言われた。

この時代においても、主を礼拝するのは、生きて働かれる真の神であり、私を惜しみなく愛し、祝福し、永遠のいのちを与え、神の子どもとしてくださったからである。私は毎日主を礼拝する習慣を見習いたい。

愛する天のお父様、あなたが私たちの神です。私たちはあなたに従います。主イエスキリストの御名によって、アーメン。