癒される信仰

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」(使徒行伝14:8‐10)

ルステラという町にいた足のきかない人が「癒される信仰」を持っていたので、パウロが彼に大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言うと、この人は飛び上がって歩き出したという記事が興味深い。癒される信仰という言葉がキーワードだ。

信仰は信仰でも、癒されるかもしれないという信仰ではなく、癒されるという確信に満ちた信仰だった。信仰は、望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるもの(へブル11章1節)である。だから強い気持ちが必要なのだ。

私も信仰が強い時と弱い時がある。神を信頼せざるを得ない時は、大いに信仰を働かせる。信じることしかできないからである。逆に自分の力や自分の知恵で何とかなりそうだと思ってしまうと、信仰を働かせることはない。

この足の利かなかった人は、癒されたいという強い気持ちと、パウロの教える福音に病気を癒す力があると思って信仰を働かせたのであろう。信仰の通りに癒されたことは感謝である。

結果として癒されるかどうかは神次第であるが、神は信じる者を尊ばれる。たとえ私たちの願い通りにならなくても、私たちが神を信じることは、永遠の祝福へとつながる。

信仰によって救われたのだから、信仰によって歩みたい。

愛する天のお父様、あなたを信じます。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。