あがない

「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。」(‭‭出エジプト記‬ ‭6‬:‭6‬-‭7‬)

贖い(あがない)の定義を辞書でみると、罪や汚れを代償によって消滅させること、とあった。私たちは贖罪という言葉に馴染みがあるかもしれない。

主なる神はイスラエルの民に言われた。「わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。」

確かにイスラエルの民は苦役の中にいたが、彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブ以降モーセの時代まで彼らが神を礼拝したという記述がないことから、神を礼拝せず、神に従うことから離れていた可能性も否めない。そうだとすると神に従わないことは神への背きという重大な罪を犯すということでもある。

神が彼らをあがなわれたのは、エジプトの人たちの手からからの救出だけではなく、神に背いてきた生き方から神に従う生き方へのあがないであった。

主はイスラエルに向けて「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」という力強い言葉を語られた。神を意識して来なかった民に対して、神が「わたしの民」となると言われたのだ。

私たちが神のところに行く前に、神に近づく前に、神が私たちのところに来てくれることがすごいことだ。私たちが神のところに行って必死に神の怒りをなだめなければ、神との関係を築けない訳ではない。

神との関係は、単なる想像の世界に留まる訳ではない。「わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう」(‭‭出エジプト記‬ ‭6‬:‭6‬-‭7‬)とあるように、神は生きて働かれ、私たちは生きておられる神を体験することができる。

信仰においては頭の中の理屈という範疇を抜け出し、神に身を委ねることである。神があがなってくださったというのは、神が救ってくださったということだ。

主なる神は私たちを罪から救うために御子イエスキリストをあがないの代価として、十字架の上で死なれた。これを信じて心に受け入れる者は永遠のいのちを得、神の子どもとなることができる。

私は救い主イエスによって自分の罪があがなわれたことを神に感謝している。

愛する天のお父様、あなたの救いを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。