信じるなら神の栄光を見る 

聖句:

“イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、

「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。

イエスは涙を流された。

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。

イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」

イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。

あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」

そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」”

ヨハネの福音書 11章33~44節

観察:

これは、私が出会った聖句の中で、最も感動的な箇所の一つです。ラザロが死にました。ラザロの姉妹や弔問客、町中が悲しみに包まれました。この町は、以前イエスさまが殺されそうになった町でした。イエスさまの弟子たちはこの町には戻りたくありませんでした。イエスさまは友人ラザロが死んだと言う知らせを受けとります。ラザロの姉妹はメッセージをイエスさまに送りました。彼女たちは、イエスさまが単なる人間ではないことを信じているように記されています。イエスさまはその知らせを聞いて、すぐにベタニアには行くことをあえて遅らせました。ラザロはすでに四日間墓の中に葬られていましたが、そのタイミングでイエスさまが彼女たちの前に現れたのです。

イエスさまはマルタと一緒に弔いに来たユダヤ人たちも泣いているのを目にします。それがイエスさまを動かしました。イエスさまはラザロがすでに四日前から納められ埋められている墓に行かれます。そこでイエスさまは涙を流されています。イエスさまが泣かれた理由はいろいろあると思います。まず、群衆が泣いているのを見たこと、そしてマルタが泣いているのを見たことです。イエスさまは私たちの大祭司であり、私たちが経験することに共感してくださいます。イエスさまは、私たちの人生に関わるすべての状況の痛みに触れ、その痛みを感じておられるのです。第二に、イエスさまは私たちの悩みを見抜き、私たちが経験していることに常に心を寄せておられます。イエスさまは冷淡な方ではありません。私たちの痛み、特に死の痛みを感じてくださっています。

イエスさまは人々が泣くのを見て深く心を動かされましたが、ラザロの墓の前に立たれた時にはもっと深い感情が込み上げて来ます。イエスさまは死を憎まれます。なぜなら、イエスさまのミッションは永遠の命を与えることであって、死を与えることではないからです。ですからここで、イエスさまは友人の死に対峙するになるのです。しかし、私がイエスさまが泣かれた理由の一つは、イエスさまがどのような方で、どのようなことができる方なのか、彼の友人たちが信じることができていなかったからだと思います。イエスさまが「その石を取りのけなさい。」と言った時、マルタは、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」と言っています。

私たちが不信仰であるとき、イエスさまは私たちの人生に何もできません。イエスさまはマルタに、ご自分が復活であり命であると言われましたが、マルタにはそれが伝わらなかったのです。それで、マルタは「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」と言ったのです。イエスさまのマルタに対する応答は、神様が信仰があるところの中でしか働かないということを、私に思い起こさせてくれます。イエスさまは強い言葉でこう言われました、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

イエスさまは、ご自分に従うと告白しながらも、イエスさまを信じるものの、信頼できない多くの人々の不信仰のために、涙を流されていました。私たちは、クリスチャンと名乗り、イエスさまに従うと言っていますが、イエスさまが求めているのは、私がイエスさまの言葉を信じ、その言葉を本当に受け取っているかどうかということなのです。イエスさまは、私たちが「しかし、主よ」という態度を持っていては働くことはできません。ですから、イエスさまは父なる神様にこう祈り、お願いしたのです。「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」

私たちは誰も、イエスさまの言葉を軽く、無邪気に扱っていては、イエスさまがなさろうとしている偉大なことを見ることができません。私たちが主の栄光を見ることができないのは、私たちの心と思いの中にある「しかし、主よ」という不信仰のつぶやきです。イエスさまにとって、語られる言葉はイエスさま自身です。そして、私がその言葉を信じられないとき、主はそれを見過ごすことはありません。多くのクリスチャンはまだ不信仰のうちに生きています。それによって、私たちはイエスさまとの旅で見てみたいと思うような突破口を見ることができていないでいるのです。

適用:

私もこの「でも、主よ」症候群に陥っていることを認めます。神様の栄光を見るために、日々神様の言葉を信じたいです。私の不信仰のために、キリストに泣かれるようなことはしたくありません。イエスさまは私が何を必要としているかを知っておられ、また私の痛みを感じ、私の深刻な状況を見ることがおできになります。どんなに困難なことでも、神様に不可能なことはありません。私が願うこと、夢見ること、計画することよりもはるかに多くのことを、そしてそれを超えることをなさることがおできになるのです。

祈り:

イエスさま、今日、あなたの御言葉からこのような気づきを得ることができ、感謝します。あなたにとって難しいことは何もないことを感謝します。私がいつでもあなたの言葉を信じることができるように助けてください。あなたの栄光が私の人生に働くのを見ることができるよう、どうあなたを信じたら良いかを教えてください。私の不信仰を忍耐強く受け止めてくださっていることを感謝します。私の不信仰を助け、あなたの栄光の力を見ることができるように。私はあなたを見て、あなたにとって難しいことは何もない、墓さえもないことを知っています。あなたはアルファでありオメガであり、始まりであり終わりです。私はあなたのみ言葉を信じます。