謙遜を身に着けよう

聖句:

“同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。”

ペテロの手紙 第一 5章5~11節

観察:

人の下で働くことは難しいことです。しかし、ペテロは若い人たちに長老たちに従うようにと勧めています。従うことについては、若者と長老たちの両方に謙遜さがあるときにのみ可能となります。謙遜は神様のコミュニティにおける人間関係の印であり、それは常に人々の間で共有されていなければなりません。ペテロは、「すべての」信者が互いに謙遜を身につけるように命じました。その理由は、神様は高慢で傲慢な人に敵対し、へりくだった人に好意を示されるからです。神様が私をへりくだらせるより、私がへりくだる方がずっとよいのです。謙遜を着るということは、イエスさまに従う信者として持つべき唯一の責任です。

若い人たちが自分たちを長老の立場に立とうとし、その教会のコミュニティの長老たちを軽んじているようなところがあったのでしょう。若い人たちは、長老たちに顧みられていないと感じている人を指導したり世話をしたりするのに、自分たちの方がずっと良い仕事ができると思ったのでしょう。神様は高ぶる者に敵対されますが、へりくだる者には好意を持たれます。神様は謙遜を愛し、謙遜のうちに強く働かれます。自分を高くしようとする人や自己宣伝は危険です。人生は謙遜と高慢がぶつかり合う戦いです。プライドに駆られた人は、自分と自分の力に頼ろうとします。しかし、へりくだった人は、神様の愛しみに頼ります。

私たちが謙虚さを身にまとったとき、私たちは神様の愛しみに頼ることを学びます。神様が私たちを気遣ってくださるので、私たちの不安や心配をすべて神様に委ねることができることを学びます。私たちは、自分に襲いかかるサタンの働きに注意深く、冷静な心でいることを学びます。さらに、謙遜を選択することが、サタンに対抗し、信仰に堅く立つことができるようになることを学びます。祝福は、サタンが私たちに対して行おうとすることで私たちが苦しむとき、神様が私たちを見守っておられ、悪魔が破壊しようとするものを神様が回復させることができるという希望を持つことができることです。

クリスチャンの戦いにおいて、プライドは決して私たちに対するサタンの働きに打ち勝つ助けにはなりません。プライドは、サタンが人々の生活の中で力強く働く霊です。しかし、謙遜は、神様が私たちに代わって戦いを行ってくださるために、私たち全員が身につけるべき武具です。私たちは、神様が私たちを愛し、気にかけてくださっていることを信じ、すべての心配事、悩み、不安を神様に委ねなければなりません。

適用:

謙虚になるより、高慢になる方が簡単です。プライドを捨てることは私の責任です。謙虚さを身につけることが私の責任です。神様はこの二つのことを私に代わって選んでくれることはありません。私の人生におけるすべてのプライドに関する問題を取り除くのは、私の責任です。私の願いは、イエスさまの謙遜を身にまとい、サタンに対抗し、サタンに対して堅く立つことができるよう、イエスさまに力を与えてもらうことです。謙遜を纏うということは、神様の力と神様からの好意を身につけるということです。私は、毎日の生活の中で、謙遜を着続けていきます。

祈り:

イエスさま、私があなたの謙遜を身にまとうことができるように助けてください。私が謙遜の力の中で歩むことができるように、あなたの愛しみで私を導いてください。あなたが私を気遣ってくださるゆえに、私の心配事をすべてあなたにあずけることができますように。私が日々謙遜を選び、あなたを恐れ、あるべき歩みができるよう、私を教えてください。私は毎日、イエスであるあなたを見上げます。日々、謙虚になれるように私を助けてください。