義という平安の実を結ばせる

「さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」(へブル人への手紙 12:9-11)

義という言葉は「正義」「勝利」など救いとの関連が強く見られる(イザヤ45:24-25、46:12-13)意味や、「真っすぐな」「規範となるべきもの」「正しい規準」という意味がある。

聖書が教える義は、私たちの行いではなく、信仰によって得られるものとある。神の前に正しい姿は、神を信じる姿であって、良い行いをすることではない。これが人間的な価値観と全く違う。

私たちは行動や言葉など、外側を見て判断する。内側のものが外側に滲み出るのであって、内側がぼろぼろで外側を上手く取り繕っても、必ずぼろが出てくる。

肉の父とは、この地上のお父さんであるが、「わずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しました」とある。永遠ではなく、また完璧ではないが、一生懸命子育てをしてくれたのかもしれない。

そして私たちには霊の父、天の神がいる。霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練される。

神から受けるすべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われる。自分の肉に対して死ななければならないからだ。

しかし、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせる。私たちは信仰によって生きてはじめて、義という平安の実を結ばせることができる。

信仰の実は簡単には揺るがされない。信仰の実を実らせ、神と共に歩みたい。

愛する天のお父様、あなたを信じて歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。