裏切りの後に

「イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。」(マタイによる福音書‬ ‭26‬:‭23‬-‭25‬)

イエスの周りには、イエスを裏切る者たちが大勢いた。特にイエスの十二弟子たちは全員イエスを裏切った。

ユダが座っていた同じ席でイエスはペテロに言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。 

ユダはイエスへの接吻を合図に、イエスの身柄をローマ兵に引き渡した。すると決して見捨てないと豪語していたイエスの弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。   さらにペテロは鶏が鳴く前に、三度イエスを知らないと言ってしまった。(‭26‬:‭34‬-‭35‬, ‭56‬, ‭75‬)

人間の口約束ほど当てにならないものはない。人間は簡単に裏切る。かつての日本の侍たちに関しても上の者に忠誠を誓ったことで有名だが、神を知らない者たちには神への忠実さを理解し得なかったはずである。

裏切りは人間誰もが抱える悲しい罪であるが、神は私たちの裏切りさえも赦してくださる。イエスの弟子たちの中でも、ユダとその他の弟子たちを大きく分けたものは、裏切った後の歩みだった。ペテロは自分の罪を示されて激しく泣き、イエスが復活した後、イエスのもとに戻ってきた。ユダ以外みな信仰が回復した。

ユダは自らの命を断つ選択した。ユダは悔い改める選択をしなかったのである。

イエスが人の子を裏切る人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう、と述べられたのは、ユダが神の憐れみを受けて悔い改める選択をしなかったことがある。

生まれなかった方が良かったという表現は、命を受けたことよりも、私たちの罪深さや苦悩を嘆く言い回しに聞こえる。旧約聖書の中にこのような表現がある。「わたしの生れた日は滅びうせよ。 『男の子が、胎にやどった』と言った夜も そのようになれ。」(ヨブ記‬ ‭3‬:‭3‬)「わたしの生れた日はのろわれよ。 母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。」(エレミヤ書‬ ‭20‬:‭14‬) 

私たちが罪を犯し、また苦悩の中に投げ込まれた時、自分の生を呪いたくなるだろう。しかし、神は憐れみ深く、私たちの罪を完全に赦し、また救い出してくださる。主を信じ、主を見上げて歩みたい。

愛する天のお父様、あなたは罪深い私たちに憐れみを示してくださるお方です。あなたを信頼して歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。