死んで葬られよみがえれたイエス
「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。」(マルコによる福音書 16:14-18)
イエスはローマ兵たちやユダヤ人祭司長たちから嘲られ、十字架の上で息を引き取られた。そして死体は墓の中に葬られた。しかし、三日目の朝、イエスは墓にはいなかった。よみがえられたからである。
よみがえられた後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れた。そして彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。
私たちが不信仰だったり、心が頑なであると、神との距離が広がり、死からの復活を信じ、私たちの救い主であることを信じることができなくなるからだ。イスカリオテのユダを欠いた十一弟子は、よみがえられたイエスを肉眼で見たので疑う余地はもはや無くなったであろう。
肉眼で見ていない私たちは信じることしかできない。イエスが命じられたように、私たちは全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える使命が与えられた。救うのは主であり、私たちは宣べ伝えることを命じられている。
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。 信じるかどうかはひとりひとりの決断であるが、信じた者には救いが与えられ、主イエスの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかみ、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手をおけばいやされるというしるしが伴う。神の働きを見ることは私たちの心の励みとなるだろうが、私たちの名が天に記されていることが何よりも大切である。イエスは私たちの罪を赦し救うために死んでよみがえられたのだから。
愛する天のお父様、あなたは私たちの罪のあがないのために、ねたまれ、むち打たれ、葦の棒でその頭をたたかれ、つばきをかけられ、頭を振りながらののしられ、嘲弄されました。自分の命をささげ、黄泉にくだられ、苦しんでくださいました。私たちが燃える火の池で苦しむことのないように犠牲を払ってくださいました。あなたの憐れみ深い愛のゆえです。ありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。