イエスと群衆と弟子たちと悪霊

「イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。 それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。 また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。 イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。 さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。 そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、 また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(マルコによる福音書‬ ‭3‬:‭9‬-‭15‬)

イエスが多くの人をいやされたため、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたという。それでイエスはどうしたのか?群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと弟子たちに命じられた。イエスは自分たちの要望を満たそうと押し迫る群衆を避けたのである。

癒しを求めるのはある意味当然だか、かなり切羽詰まった状態で、イエスや他の人たちのことを顧みずに、我先へと押し迫る群衆に対して身の危険を感じたのか、あるいは群衆の利己的な行動に対して辟易したのか、イエスは自ら群衆から一定の距離を取られた。

ここに私たちはイエスとの関わり方の本質を見る。憐れみ深い神は、私たちが闇雲に、しかも取り乱すようにして押し迫ってしまうこともご存知だ。しかし私たちが何を期待し、またどのようは態度で臨むのかは重要で、神の御心を知ること、そして主に自分の人生を委ねることを主は願っておられるからだ。

また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、イエスの前にひれ伏し、叫んで「あなたこそ神の子です」と言った。 言葉を追いかけるなら、それは正しい。しかし、汚れた霊、つまり悪霊は神の救いや癒し、平安や喜びを与える働きを邪魔し、人々に対して偽り惑わし、滅ぼし殺す者である。イエスが十二人の弟子を立て、彼らを自分のそばに置き、宣教につかわし、悪霊を追い出すために権威を持たせたのは、神の国が広められるためだった。

私たちはイエスの御名によって悪霊を追い出し、群衆を弟子たちに変える働きに呼ばれている。だから悪霊を恐れる必要はない。むしろ真正面からイエスの名によって悪霊を追い出すことができる。人々が血迷った行動をしても、主のそばにおり、キリストを宣べ伝え、悪霊を追い出し、キリストの弟子として歩むことができることを覚えていたい。

愛する天のお父様、私たちが悪霊に働く機会を与えず、聖霊に満たされて歩むことができますように。あなたのそばにいて、あなたのことを宣べ伝えることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。