傷つけ、また包み、 撃ち、またその手をもっていやされる方
〜今日のデボーションから〜
2022/10/19
「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。 それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。 彼は傷つけ、また包み、 撃ち、またその手をもっていやされる。 彼はあなたを六つの悩みから救い、 七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。」(ヨブ記 5:17-19)
神に戒められるとは、私たちの内にある落ち度、良くない部分に対して神がチャレンジされるということだ。それは神が私たちを愛しておられるからであり、私たちを憎んだり、傷めつけたりしようとしているからではない。
神が私たちを戒められる上で、神が私たちを傷つけられることがある。しかしその傷はそのままにされるのではなく、神はその傷を包まれる。神が私たち撃たれる時、神はその手をもって私たちをいやされる。
聖書の中に神が傷つけ、撃たれる場面が出てくるが、それは神がイスラエルの民への愛や赦しを繰り返し伝え、宣言しているのにもかかわらず、神に背き続けたため、イスラエルの民は苦しみの中を通され、傷つき、撃たれたという場面だ。いうならば、それは彼らの罪の結果として起きた事例である。神に対する反逆行為に対して、神が主権をもって取られた措置であるから、私たちはそれに対して、そもそも良し悪しを述べる立場にはない。
神は異邦人を愛していなかったわけではないが、旧約聖書の中に出てくる異邦人たちは、偶像礼拝し、神を知らないがために好き勝手な生き方をし、そのまま生涯を終えてしまう人が多かった。しかしシリヤの将軍ナアマンなどの異邦人が神の恩恵に与る場面も出てくることから、個人的に神の祝福に預かる場面もある。異邦人が神に傷つけられ、神に撃たれ、滅ぼされたのは、民として神に背いたことに対する神の主権ある措置であったようだ。
神が包んでくださること、またその手をもって癒やされるということが、どういうことかという部分も理解を深めることで、自分の心の中に神の愛を感じたり、また生きてゆく上での安心感につながる。イスラエルの民は傷つき、撃たれたが、滅ぼされることはなかった。彼らは何度も神の憐れみを受けた。何度も愛され、何度もやり直しの機会が与えられていた。
傷つけ、また撃たれる同じ神が、私たちを六つの悩みから救い、 七つのうちでも、災は私たちに触れることがないという言葉は大きな慰めと安心感を与える。今日神は私たちをユダヤ人と異邦人というような区別をせず、すべての人に恵みを注ぎ、誰でも救われ、誰でも神の子どもとされ、誰でもやり直す機会を与えられている。だから罪を赦してくださる神を信頼して歩んでいきたい。
愛する天のお父様、あなたの愛を感謝します。あなたに従います。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。