神を見上げる視線
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。(ヨブ記 19:25-28)
ヨブは友人たちの言葉に心を痛めた。ヨブは言った。「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか。もう十度もあなたがたは私を辱め、
私をいじめて恥じることもない。私が本当に過ちに陥っていたとしても、私の過ちは私のうちにとどまるだけだ。」友人たちの言葉は何も解決とならず、ただヨブの心を苦しめた。
ヨブの友人たちの言葉がヨブを責め立てたことについて、神がヨブを試すための不当行為だったと言った。「もし、本当にあなたがたが私に向かって高ぶり、私が受けた恥辱のことで、私を責めるつもりなら、今知れ。神が私を不当に扱い、ご自分の網で私を取り囲まれたことを。 」(ヨブ記 19:2-6)
神が私たちを試される時に、私たちは不当だと感じるかもしれない。しかし神が不当なのかと言うとそうではない。ヨブはこのように証言している。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。」
辛い中にいて神を見上げる視線は、不当で厳しく感じる現実から贖い主、救い主を見上げる視線である。私たちの救い主が私たちを救ってくださることを覚えて、信頼して歩みたい。
愛する天のお父様、あなたは私たちの贖いの神、救いの神であることを私たちは知っています。あなたが今日も救いのわざを行なってください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
