上にあるもの
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ人への手紙 3:1)
私たちはキリストとともに死に、キリストとともによみがえらされた。私たちはキリストの復活にもう既に与ったと聖書は言う。私たちは信仰によってキリストの復活にあずかり、肉体が死んでも霊は永遠に生きる。これがキリストの復活にあずかるということだ。
肉体の死を通らされても、霊的な死にあずかることはなく、霊的ないのちを得て、永遠に生きるのだから、私たちは上にあるものを求めて生きていくことができる。つまり、神の右の座に着いておられるキリストを求めながら生きるということだ。世の終わりにキリストが私たちを迎えに来て、私たちに永遠のいのちを与えてくださるのだから、その日が来るまで、私たちはキリストを求めながら生きていくことができるのだ。
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ人への手紙 3:3-4)
さて上にあるもの、つまりキリストを求めて生きてゆく生き方とはどんな生き方なのか?
キリストを求めていたパウロがコロサイの教会に勧めた言葉を見てみよう。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
深い同情心は、私たちが罪人であり、主イエスの救いを必要としていたとき、キリストは私たちに対して深い同情心を持っておられたので、私たちの救おうと十字架についてくださり、身代わりとして私たちの罪の代価を支払ってくださった。
慈愛は善意、誠実、親切を表す言葉だ。キリストの慈愛が私たちを悔い改めに導いた。多くの人は自分がさばかれるのではないかと恐れている。しかし、キリストは罪深い私たちを裁かなかった。
謙遜さは、他人を自分よりすぐれていると考えることであり、虚栄心から何かをすることではない。キリストは神であるのに、人としての弱さで生き、私たちの救いのために十字架につけられた。十字架では酷い屈辱を受け、プライドがズタズタにされた。謙遜だったからこそ、キリストは私たちの代価を支払ってくださった。
柔和であることは、主の力によって生きることであり、自分の力を抑えることである。私たちは強がる必要はない。信仰を持って生きること自体が強さである。キリストが私たちを愛し、希望を与えてくださった。だから私たちは柔和でいられる。
そして寛容であることだ。寛容とは忍耐すること、我慢すること、長い苦しみに耐えることを意味する。キリストは罪中心で生きる私たちに対して、私たちが罪を離れ、神の祝福中心に生きるように願っておられる。それを長い間忍耐を持って関わり続けて下さっている。
愛する天のお父様、あなたの救いを得た私たちはあなたにあって死からの復活を得ました。ありがとうございます。天におられる御子イエスキリストが地上で表した深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
